臨時政府樹立
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ナポレオン3世が捕虜になったニュースはパリに衝撃を与え、9月4日にルイ・ジュール・トロシュ(Louis Jules Trochu)将軍、ジュール・ファーヴル(Jules Favre)、レオン・ガンベタ(Leon Gambetta)らが仕掛けた無血クーデターが成功し、フランス第二帝政は打倒された。彼らはボナパルト派の第二帝政を退け、国防政府(フランス語版、英語版)(臨時政府)を樹立させて、共和国を宣言した。これが将来の第三共和国につながっていく。なお、ナポレオン3世はドイツへ連行され、翌1871年3月19日に解放された。 セダンでのドイツ勝利の後、ナポレオン3世の軍はドイツに降伏して皇帝自身が捕虜となった。バゼーヌ元帥の軍はメスで包囲されて動けなくなっており、残っているフランス軍部隊の大部分は戦闘に参加していない。この状況を受けて、ドイツ側としては交戦状態を公式に終わらせて休戦し、更に講和につなげる道筋を望んだ。特にプロイセン宰相ビスマルクは、可能な限り早く戦争を終わらせたかった。多くの国と接するプロイセンのような国にとって、戦争が長引くという事は、他の勢力からの干渉を受ける危険性が増す事を意味する。ビスマルクは、その危険を最小限にすると固く決心していた。 当初、和平への道筋は明るいと考えられていた。ドイツ側は、フランス新政府は自分たちの手で倒した前皇帝の始めた戦争を続けることに興味はないだろうと推測していた。和平の道を探るため、ビスマルクはフランス新政府をフェリエール城(Château de Ferrières)で開かれた交渉に招き、穏当な講和条件のリストを示した。それにはアルザスにおける限定的な領土要求も含まれていた。 プファルツ州のライン川沿いの国境争いは1840年からなされており(アドルフ・ティエール、ライン危機)、ドイツ人はライン川の両岸を守るいう意識が強かった。プロイセンは最近カトリック人口の多い広範囲の地域を獲得したため、更なる拡張は望ましくないとビスマルクは考えていた。
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臨時政府樹立
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「パーヴェル・ミリュコーフ」の記事における「臨時政府樹立」の解説
1917年、二月革命により皇帝ニコライ2世は退位し、臨時政府とソビエトの二重権力体制が生じた。ミリュコーフはあくまで立憲君主制を維持することを望んでいた。しかし事態は彼の予想を超えて余りにも早く動いた。 3月2日ゲオルギー・リヴォフ公爵を首班とする臨時政府が成立すると、ミリュコーフは外務大臣に任命された。このほか、陸海軍大臣にはグチコフ、司法大臣にはケレンスキーが任命された。 外相としてミリュコーフは、いかなる犠牲を払ってでも平和を求める世論に対しては、断固として反対した。1917年4月20日に、臨時政府は連合国に書簡(いわゆるミリュコーフ通牒(英語版))を送った。この中でロシアは連合国側で戦争を継続することを約束した。連合国の勝利に終わるまで戦争を遂行するというミリュコーフの決定は、厭戦気分に満ちたロシア国民の怒りを買う結果となった。ペトログラードの労働者、兵士たちはデモを行い、ミリュコーフとグチコフ陸海軍大臣は辞任を余儀なくされた(四月危機)。
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