戦線崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:52 UTC 版)
「ヴィットリオ・ヴェネトの戦い」の記事における「戦線崩壊」の解説
10月28日、伊軍渡河と墺軍の総退却と同じ日にハプスブルク体制に反旗を翻していた民族の一つであるチェコ人勢力は臨時政府樹立を宣言した。10月29日には南スラブ人勢力がこれに続き、帝国本土は内乱状態に陥りつつあった。10月30日、墺軍の混乱を尻目に伊軍は第10軍を中心に戦線を拡大させ、4個軍が前線を大きく突破して24km後方にまで突出した。初期目標であるヴィットリオ・ヴェネトを含め、幅54kmにも及ぶ戦線が対岸に構築された。これによりピアーヴェ川のオーストリア・ハンガリー軍の防衛線は南北に分断され、6日間に亘った戦闘でイタリア側は当初の目標を達成した。対照的にオーストリア・ハンガリー側は前線での苦戦もあり、帝国内の民族紛争は一層に加熱していった。 10月31日、ヴィットリオ・ヴェネト陥落の翌日には遂にハンガリー人(マジャル人)勢力が独立運動に加わり、オーストリア・ハンガリー帝国の解散を求めてブダペスト暴動が発生した(アスター革命)。タリアメント川に敗走していたオーストリア軍内ではハンガリー系兵士とオーストリア=ドイツ系兵士との対立が先鋭化し、少数派であるチェコ系兵士やスラブ系兵士の脱走も相次いだ。ディアツ将軍は敵軍が士気崩壊に陥っている状態を見逃さず、直ちに全軍へ追撃命令を下した。最初の追撃で5万名のオーストリア兵がイタリア軍に降伏、捕虜はイタリア第11軍がタリアメント川近辺に到達した11月1日までに10万名にまで増えた。11月1日からはイタリア海軍も攻勢に加わって戦線後方のトリエステを占領し、オーストリア軍後方を脅かした。 11月3日、イタリア陸軍はタリアメント川に到達、次の目標たるイソンヅォ川へ向かおうとしていた。
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