帝国諸民族の離反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:29 UTC 版)
「カール1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「帝国諸民族の離反」の解説
1918年、同盟国側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反(チェコスロバキア、ポーランドなどが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カールは帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。 10月12日、帝室の保養地バーデンにすべての民族の32名の代議士を招き、「諸民族内閣」を発足させようと試みた。しかしチェコ人と南スラヴ人からは「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と返答された。ボヘミア、クロアチア、ガリツィアなどで暴動が起きようとしているのを知ったカールは、これを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した。 オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。 カールにはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けてハンガリー王国議会では、1867年のアウスグライヒの前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された。 11月3日、カールは正式に帝国連邦化を宣言し、同日イタリア王国とヴィラ・ジュスティ休戦協定を結び無条件降伏した。
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