戦線の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:27 UTC 版)
「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「戦線の概要」の解説
東部戦線の主戦場はバージニア州、ウエストバージニア州、メリーランド州およびペンシルベニア州であり、コロンビア特別区および海岸の要塞やノースカロライナ州の海港も含まれる。(カロライナ両州の内陸部では1865年に戦闘があったが、これらは西部戦線に含める。) 東部戦線には南北戦争の経過の中で一般に名の知られた作戦が含まれている。これはその戦略的重要性の故ではなく、人口集中部に近く、大きな新聞の発行所があり、対立する両軍の主要都市があったからである。実際北部の首都であるワシントンD.C.と南部の首都であるリッチモンドは両方とも東部に所在し、100マイル (160 km) 程度しか離れていない。あの広いアメリカではこれはほとんど目と鼻の先程度の距離であり、ワシントンD.C.に至っては目の前を流れているポトマック川を越えたらそこはもう敵地(バージニア州)と言うような状態だった。結果的に両軍の首都攻防戦が何度も行われ、多くの人の記憶に残ることとなった(また、どちらの軍でも東部で指揮を任されることのほうが西部に派遣されるより名誉な事だと思われていた)。北部人も南部人もその想像力は、米軍屈指の名将として名高いロバート・E・リー将軍が指揮する南部の北バージニア軍と、その名将に対抗するべくリンカーン大統領が次々と指揮官を変更した北部のポトマック軍の間の壮大な戦いに捉えられてきた。南北戦争の中でも最も流血の多い戦い(ゲティスバーグの戦い)と流血の多い一日(アンティータムの戦い)もこの戦線でのできごとだった。南軍を倒すためには西部戦線の方が戦略的に重要だったという議論がなされてきたが、1865年のアポマットクス庁舎でのリーの降伏という決断無くして戦争が終わったと双方の文民が考えられたかといえば、それはあり得ないことである。 戦線はアパラチア山脈と大西洋に挟まれていた。戦闘の大半はワシントンとリッチモンドの間の地域で行われた。この地域では、多くの川が主に西から東に流れており、北軍にとって接近経路や通信線となるよりも障害となっていたので、南軍の守備隊には好都合であった。このことは西部戦線の初期とは全く異なっており、北軍は輸送経路として当時の主要道路にのみ頼っていたので、両軍共に冬季の作戦行動には制限があった。北軍の利点は海や主要河川を制していたことであり、海洋に近く駐屯する軍隊への補強や補給を容易にしていた。 アメリカ合衆国国立公園局(NPS)によって作られた作戦の分類では、本稿で使うものよりも詳細になっている。NPS分類の小さなものは省略するか、大きな作戦の中に組み込んだ。NPS分類にある東部戦線での160の戦闘のうちほんの幾つかを記述することになる。
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