戦線の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 01:35 UTC 版)
事件を受けた花蓮港守備隊は1897年(明治30年)1月10日、2個中隊を出動させるとともにアミ族南勢蕃600人を援軍として募るも、外タロコのタロコ族は頑強に抵抗し、路上に逆茂木を並べ、山上から大岩や大木を転がすなどして交通を妨害した。日本軍は必死に応戦するものの高所からの攻撃に反撃のすべもなく、弾薬を浪費するばかりだった。 2月6日。日本軍は三桟より手前のタロコ族の村落、カウワン社を制圧する作戦に変え、湯地連隊長の指揮のもと、参謀、大隊長、工兵小隊長、軍医、日本人軍夫200人、アミ族の青年らを従え総勢1737人の大部隊を結成、作戦を開始した。だが密林に分け入るや横から射撃を浴びせられ、日本語の命令はアミ族には通じず、ただ狼狽するばかりだった。対するタロコ族は個人個人が巧みに分散して障害物に隠れつつ林間を駆け、日本軍に射撃を浴びせる。伝令兵は負傷し、あるいは「馘首」され、負傷者が増えるばかりだった。 従軍記者の小城忠次郎はタロコ族の戦術を「楠公千早城の風で要所の地点に大木大石を吊るし我軍の侵入を待って切り落とし、竹釘をさして行進を悩まし、最寄りの地点に銃座を作って狙撃し、裸体裸足で出没すること猿の如く、如何とも仕方ない」と称する。 業を煮やした日本軍は澎湖庁に停泊中の巡洋艦 葛城を回航させ、艦砲射撃することでタロコ族の屈服を計った。だが村落は山中に分散して立地し、家々も竹で組まれているため砲撃の効果は薄かった。タロコ族らも最初の内こそ砲声におびえていたが次第に慣れ、竹かごを頭に載せて平然と出歩き、挙句は日本軍のラッパの口真似をしていたという。 戦闘の長期化で、日本側では傷病兵も含め損害が増える一方だった。それでも三桟から新城の兵舎跡に達し、最初の犠牲者の遺体収容には成功した。ここで一応の目的は達成されたため、同年6月をもって援軍は基隆に引き上げた。 一連の戦闘で、日本軍は大量の傷病兵を出した。小城忠太郎の記録によれば、戦地ではマラリア、黒水病、腸チフスが猖獗をきわめ、戦病死者は500人以上、1個中隊の兵員が20名ほどにまで減少したという。
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