戦線の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 13:06 UTC 版)
両社の争いは国内のスクーター市場だけに留まらず、1982年3月にはホンダがプジョー子会社のサイクル・プジョー製自転車の輸入販売を発表する。元々プジョーは日本国内での販売パートナーとしてヤマハへ交渉を持ちかけ、ほぼ締結直前の段階にあったが、これが突然反故にされたために小池は激怒し、自らフランスに乗り込んだ。また、プジョー社内でもレジャー産業を持つヤマハを押す声が依然あり、事態は混乱を極めた。 アメリカのオートバイ市場も争いの場となった。それまで順調に業績を伸ばしてきたヤマハは、1981年末の新車予約状況で最高記録を達成し、50%近いシェアを持つホンダ追撃に向けた在庫積み増しを開始した。対抗してホンダは1982年だけで11モデルの新車を発表し、その主軸となった「ゴールドウイングアスペンケード」は、既存の「インターステート」グレードの更に上級モデルとして投入される。さらに「VF750セイバー」での水冷V型4気筒750ccエンジンの市販車初搭載や、国産車で初のターボモデル「CX500ターボ」などラインアップを揃えた。しかしこの年アメリカ景気は後退し、主要市場であったブルーカラー層は収入減やクレジット枠の縮小などに見舞われ、両社の販売は不振に終わった。 ホンダ・ゴールドウイング
※この「戦線の拡大」の解説は、「HY戦争」の解説の一部です。
「戦線の拡大」を含む「HY戦争」の記事については、「HY戦争」の概要を参照ください。
戦線の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:08 UTC 版)
そのころ裘甫は兵を割いて、衢州と婺州とを侵略させたが、婺州の押牙の房郅・散将の楼曾・衢州の部将方景深は要害に立てこもって防いだので賊は入り込むことができなかった。そこでまた兵力を分けて明州を侵略させた。明州の住民は財産を出しあって勇士を募り、防備を固めた。賊は兵をやって台州を襲わせ、唐興県(浙江省天台県)を破った。己巳、裘甫は自ら10000人余りの兵を率いて上虞県(浙江省紹興市上虞区)を襲ってこれを焼き払った。癸酉、余姚県(浙江省余姚市)に入り丞(県の総務部長)・尉(県の警察部長)を殺した。そして東方の慈渓県(浙江省慈渓市)を破り、奉化県(浙江省寧波市奉化区)に入り、寧海県(浙江省寧海県)まで進み、県令を殺して占拠した。さらに部隊を分けて象山県を包囲したが、軍の通過するさきざきで壮丁をとらえ、その他の老弱者は蹂躙して殺した。 王式に浙東観察使の辞令が下りると、浙東地方の人心はいくらか安定した。これを知った裘甫は、酒盛りの途中だったが不機嫌になったといわれる。劉暀は裘甫に「軍を率いて越州を取って城郭を占領し、府庫を確保すべきです。さらに兵5000名をやって西陵城(銭塘江南岸)を守らせ、浙江沿いに寨を築いて防ぐのです。また船舶を集め、隙に乗じて浙西まで進撃して取り、揚子江を渡って揚州の財貨を軍資金にします。それから石頭城を修築して守備を固めます。劉従簡には兵10000名をもって海路を南下して福建を奪い取らせ、唐朝の税収の地をことごとく我が物にすれば、我々一代の間はまずもって心配ないでしょう」と提案した。客分の扱いを受けていた王輅は逆に「それより一同を引き連れて要害に立てこもって自衛し、一旦緩急のさいには海島に逃げ込むのがよろしい」と主張した。裘甫は王式を恐れ、くずくずして方針を決しかねていた。
※この「戦線の拡大」の解説は、「裘甫の乱」の解説の一部です。
「戦線の拡大」を含む「裘甫の乱」の記事については、「裘甫の乱」の概要を参照ください。
- 戦線の拡大のページへのリンク