戦線復帰
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1943年(昭和18年)9月15日の修理完成後、「巻波」は舞鶴から上海に移動した。日本軍は南東方面各地の防衛強化のため、支那派遣軍の隷下にあった第十七師団(師団長酒井康陸軍中将)を第八方面軍に編入していた。第十七師団の第一梯団(人員5940名、車両650輌、諸物件6,800立米)をニューブリテン島ラバウルへ移動させる「丁二号輸送」が実施された。第一潜水戦隊司令官古宇田武郎少将(旗艦、平安丸)を指揮官とする丁二号輸送船団が編成された。輸送船団は、駆逐艦3隻(巻波、山雲、響)、水上機母艦秋津洲(旅団長乗艦)、特設巡洋艦3隻(平安丸、護国丸、清澄丸)であった。9月24日、丁二号輸送船団は上海を出発した。10月2日、丁二号輸送船団はトラック着、即日出発する。5日、丁二号輸送船団は損害なくラバウルに進出し、陸軍将兵や輸送物件を揚陸する。翌日、ラバウルを出発した。航行中に空襲をうけ「清澄丸」が至近弾で戦死1名を出したが、他艦に異状はなかった。輸送船団は9日にトラックに帰投して任務を終了、解散した。ラバウルに上陸した第十七師団は、ニューブリテン島各地に配備された。 10月10日、巻波以下の第二水雷戦隊は戦技訓練をおこなう。翌日、長波と涼風は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛してトラックを出発、ラバウルに向かった。10月中旬以降、トラック泊地に残った巻波以下の二水戦各艦は、第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将)と行動をともにしてエニウェトク環礁に進出した。アメリカ海軍機動部隊出現の兆候があった為の措置だが、空振りであった。 10月28日、ブーゲンビル諸島の情勢緊迫にともない連合艦隊は「ろ号作戦」を発動した。11月1日、連合軍はラバウルに対する攻勢を強化するべく、ブーゲンビル島に新規飛行場を建設するため上陸作戦を敢行した(ブーゲンビル島の戦い)。この脅威に対処するため、連合艦隊はトラック泊地に待機している第二艦隊や第三艦隊(機動部隊)の艦艇をラバウル方面に派遣する。また第二艦隊・第三艦隊の一部艦艇・部隊をもって、第一航空戦隊の基地員や物件を輸送することになった。輸送任務終了後、これらの艦艇は南東方面部隊(南東方面艦隊)に編入されることになった。11月3日、「巻波」は輸送任務のためトラック泊地を出撃、5日にカビエン着後はラバウルに回航された。この時、ラバウルでは第38任務部隊の空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) とプリンストン (USS Princeton, CVL-23) より発進した攻撃隊により、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の重巡洋艦部隊(遊撃部隊)が大損害を受けていた。 ラバウル到着後の「巻波」は第十戦隊(司令官大杉守一少将)の指揮下に入り、ブーゲンビル島タロキナ輸送に、支援隊として参加した。11月7日にラバウルへ帰投、他方面の輸送任務についていた各艦(夕張、水無月、時雨)も同港に帰投した。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 11月11日、ラバウルは再び大規模空襲を受ける。第二水雷戦隊は夕雲型駆逐艦「涼波」(第32駆逐隊)を喪失する。ほかに姉妹艦「長波」が大破・航行不能という損害を出した。航行不能となった「長波」を「大波」が曳航しようとしたが、ワイヤーが同艦のスクリューに絡まったため、「長波」の曳航は「巻波」が担当する。 同日夕刻、第二水雷戦隊・第十戦隊各艦はラバウルを出発、トラック泊地へむかった。二水戦の「時雨」と「白露」も既にトラック泊地へ帰投しており、ラバウルに残る第二水雷戦隊は第31駆逐隊(大波、巻波、長波〈航行不能状態〉)となった。 南東方面部隊(南東方面艦隊)は麾下の外南洋部隊(第八艦隊)連合襲撃部隊を解消し、第二襲撃部隊を「襲撃部隊」と改称した。襲撃部隊の指揮官は第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将が務める。11月20日時点の襲撃部隊は、軽巡「夕張」、駆逐艦(大波、巻波、天霧、文月、皐月、水無月、卯月、夕凪、秋風、夕霧)という兵力であったが、護衛任務や修理のためラバウル不在の艦もあった。11月19日から20日にかけて、夕張艦長舟木守衛大佐の指揮下、襲撃部隊2隻(夕張、巻波)はニューブリテン島北方のガロベ島(英語版)輸送作戦を実施した。
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