第31駆逐隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 17:07 UTC 版)
2月10日、夕雲型駆逐艦3隻(沖波、岸波、朝霜)は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将・海兵44期、旗艦能代)隷下の第31駆逐隊に編入された。第31駆逐隊は「長波」1隻となっており、夕雲型駆逐艦4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)で再編された。駆逐隊司令福岡徳治郎大佐(海兵48期、前職第19駆逐隊司令) も任命されたばかりである。 2月26日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)は宇品を出港し、マリアナ諸島へ移動する第29師団(通称号「雷」師団長高品彪陸軍中将、歩兵第18連隊〈聯隊長門間健太郎大佐〉、歩兵第38連隊〈聯隊長末長常太郎大佐〉、歩兵第50連隊〈聯隊長緒方敬志大佐〉、師団戦車隊・補給部隊等) の陸軍兵士 と装備品を乗せた安芸丸(日本郵船、11,409トン)、東山丸(大阪商船、8,666トン)、埼戸丸(戦史叢書では「崎戸丸」と表記、日本郵船、9,247トン)の3隻の優秀貨客船による緊急輸送作戦に従事した。船団は2月29日未明、米潜水艦に襲撃された。雷撃により「岬戸丸」が沈没。さらに「安芸丸」が損傷した。「沖波」は健在船(安芸丸、東山丸)を護衛してグアム島およびサイパン島へ先行する。現場に残った「朝霜」は、爆雷攻撃により米潜水艦を撃沈した。この米潜水艦はトラウトだった。3月4日、船団はグァム島に到着して第29師団司令部と歩兵第38聯隊を揚陸し、翌日にはサイパン島で歩兵第50聯隊が上陸した。崎戸丸生存者を収容した各艦はサイパン島へ移動し、3月6日に歩兵第18聯隊生存者を揚陸した。3月15日、31駆は横須賀に帰投した。 3月20日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)はトラック諸島行きの東松三号特別船団、輸送船3隻(浅香丸、山陽丸、さんとす丸)を護衛して館山を出航する。船団は28日にトラック泊地に到着した。その後も、タンカー船団の護衛に従事した。 5月中旬以降、第31駆逐隊は前進根拠地のタウイタウイ方面にあり、同方面で対潜警戒に従事した。6月9日、タウイタウイ泊地で対潜掃蕩作戦に従事中の駆逐艦4隻(磯風、谷風、島風、早霜)が、アメリカ潜水艦ハーダーに襲撃され、同艦の雷撃により谷風は轟沈した。急遽出動した沖波は、谷風の生存者を救助した。 詳細は「渾作戦」を参照 この頃、ビアク島を巡って日本軍と連合軍間で攻防が繰り広げられていた(ビアク島の戦い)。日本海軍は渾作戦を発動してビアク島救援作戦を展開していたが、過去二度にわたる作戦は目的を達しえなかった。そこで、大和型戦艦2隻なども投入して第三次渾作戦を敢行、上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった。第一戦隊司令官宇垣纏海軍中将(海兵40期)が率いる渾部隊は、宇垣司令官直率の攻撃隊(第一戦隊〈大和、武蔵〉、第五戦隊〈妙高、羽黒。2隻ともバチャン泊地にて先行待機中〉、水雷戦隊〈能代、島風、沖波、朝雲、山雲、野分〉)、第一輸送隊(重巡〈青葉〉、軽巡〈鬼怒〉、駆逐艦4隻)、第二輸送隊(津軽)等という戦力を揃えた。 6月10日、攻撃部隊(戦艦〈大和、武蔵〉、軽巡〈能代〉、護衛艦艇〈島風、沖波、山雲、野分〉)はタウイタウイを出撃した。直後にアメリカ潜水艦ハーダーに発見された。これと同時に日本艦隊もハーダーの潜望鏡を発見し、沖波はハーダーを攻撃するため部隊から分離した。ハーダーはこの一週間の間にタウイタウイ周辺で駆逐艦水無月(6月6日)、早波(6月7日)、谷風(6月9日、詳細前述)を立て続けに撃沈しており、今回も沖波の真正面から魚雷を発射した。二つの爆発音が聞こえ、ハーダー側は沖波を撃沈したと判断したが、沖波は艦首7mで魚雷を回避。逆に爆雷攻撃でハーダーを追い払った。ただし大和座乗の宇垣中将以下日本側もハーダーを撃沈したと判断し、沖波の乗組員は「谷風の仇を討った」と思っていた。 6月12日、大和以下攻撃部隊はハルマヘラ島バチャン泊地に到着した。同地で第五戦隊他と合流する。作戦開始を待ったが、6月13日になってサイパン島に対する艦砲射撃が開始されるに到り、戦局は急展開する。連合艦隊は渾作戦の中止と「あ号作戦決戦用意」を発令する。攻撃部隊は同日夜にバチャンを急遽出撃する。第三艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)率いる第一機動艦隊(旗艦大鳳)に合流すべく急行した。 詳細は「マリアナ沖海戦」を参照 6月19日-20日のマリアナ沖海戦における第31駆逐隊は、前衛部隊(指揮官栗田健男第二艦隊長官〔旗艦愛宕〕)に所属して米軍と交戦した(艦隊編成と経過については、当該記事を参照)。6月19日朝、栗田艦隊が第一航空戦隊(甲部隊)攻撃隊を誤射した際には、沖波のみが対空砲火を開かなかったという。実際には武蔵等、沖波以外にも射撃していない艦がいた。6月20日の対空戦闘で、栗田艦隊は損傷艦数隻(千代田、榛名、摩耶)を出したが、沈没艦はいなかった。敗北後、日本艦隊は中城湾(沖縄本島)へ移動した。宿毛湾(宿毛湾泊地)から岸波と沖波は重巡摩耶を護衛して横須賀へ移動、6月30日に到着した。摩耶は横須賀で修理と整備をおこなった。 7月上旬、日本海軍は遊撃部隊主力をリンガ泊地に進出させることにした。7月8日-9日、遊撃部隊主隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官)は臼杵湾を出動。輸送物件の関係から、甲部隊と乙部隊という編成だった。第31駆逐隊は甲部隊所属だった。7月10日午後、遊撃部隊主隊は中城湾に到着した。沖縄の第三十二軍(司令官渡辺正夫中将)に対する輸送任務を行う。また第31駆逐隊は戦艦武蔵から燃料補給を受けた。同日夕刻、甲部隊は沖縄を出発、リンガ泊地に直接向かった(乙部隊は12日出発)。暴風雨に遭遇して駆逐艦五月雨が一時行方不明になったが、特に異状なく7月16日シンガポール(一部はリンガ泊地直行)到着。ほどなく乙部隊 や摩耶もリンガ泊地に進出し、第一遊撃部隊(8月1日附改定)は訓練に励んだ。8月中旬、31駆はシンガポール~クチン(ボルネオ島)間の船団護衛任務に従事した。
※この「第31駆逐隊」の解説は、「沖波 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「第31駆逐隊」を含む「沖波 (駆逐艦)」の記事については、「沖波 (駆逐艦)」の概要を参照ください。
- 第31駆逐隊のページへのリンク