トラウト撃沈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 05:28 UTC 版)
2月26日、第31駆逐隊3隻(朝霜、岸波、沖波)は宇品を出港し、マリアナ諸島へ派遣される第29師団(司令官高山彪陸軍中将、通称号「雷」)の陸軍兵士と装備品を乗せた安芸丸(日本郵船、11,409トン)、東山丸(大阪商船、8,666トン)、崎戸丸(日本郵船、9,247トン)の3隻の優秀貨客船を護衛する。2月29日未明、船団は.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯25度41分 東経130度21分 / 北緯25.683度 東経130.350度 / 25.683; 130.350の地点に差し掛かった所でアメリカの潜水艦ロックの発見するところとなった。朝霜は左舷斜め後方約5800mに敵潜らしきものを電探で探知した。朝霜はサーチライトを照射した後、12.7センチ砲15発を発射する。砲弾は潜航しかけたロックの潜望鏡支柱に命中し、潜望鏡が昼間用と夜間用の両方とも破損、またレーダーマストに浸水するなど大小さまざまな被害を受けていた。朝霜は午前6時45分まで爆雷攻撃をおこなったあと、船団に合流した。17時53分、ロックの通報により船団を追跡していたアメリカの潜水艦トラウトは、北緯22度40分 東経131度50分 / 北緯22.667度 東経131.833度 / 22.667; 131.833の大東諸島の南方200キロの地点で輸送船団に対して魚雷を3本発射した。魚雷2本を被雷した崎戸丸は沈没し、乗船者約3900名のうち歩兵第18聯隊長を含めた約2200名が戦死、1720名(重傷者570名)が救助された。もう1本は安芸丸に命中して航行不能に陥らせた。撃破された安芸丸は8ノットの速力が出せるまでに回復し、沖波に護衛されて先行、朝霜と岸波でアメリカ潜水艦の掃討をおこなう。17時55分、朝霜は自艦の左舷1,200メートルに潜望鏡を発見した。2分後に60メートルに設定した12発の爆雷を投下、九三式水中探信儀を使用し、さらに深い深度に設定した7発の爆雷を投下した。その結果18時16分に海中の誘爆音を聴取し、爆雷を一発投下した後水中探信儀を使用して探索したものの、反応はまったくなかった。これがトラウトの最期だった。船団はグァム島やサイパン島に立ち寄った後、内地に帰投した。 詳細は「松輸送」を参照 3月20日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)はトラック諸島行きの東松三号特別船団、輸送船3隻(浅香丸、山陽丸、さんとす丸)を護衛して館山を出航する。28日、船団部隊はトラック泊地に到着した。その後、4月14日にリンガ泊地に進出。5月中旬からは前進根拠地のタウイタウイ方面に移動して、同泊地周辺で対潜警戒に従事した。また僚艦と共にタンカー船団(日栄丸、建川丸、あずさ丸)の護衛任務にも従事した。 6月19日のマリアナ沖海戦における第31駆逐隊は丙部隊(第三航空戦隊〈千代田、千歳、瑞鳳〉、第四戦隊〈愛宕〔第二艦隊旗艦〕、高雄、鳥海、摩耶〉、第七戦隊〈熊野、鈴谷、利根、筑摩〉、戦艦〈大和、武蔵、金剛、榛名〉等。指揮官/第二艦隊司令長官栗田健男中将・海兵38期)に属した。海戦後、6月22日に中城湾に立ち寄った後、朝霜と島風は戦艦榛名(対空戦闘で被弾、舵損傷)の佐世保回航を護衛した。榛名を送り届けたあと、28日になって呉に到着した。ただちに対空機銃の増備、レーダーの改良と設置作業をおこなった。この頃、朝霜は機関部(減速装置)に若干の不安を抱えた。 7月8日、第31駆逐隊(岸波、長波、沖波、朝霜)は遊撃部隊主隊(甲部隊、旗艦「愛宕」)として呉を出撃する。沖縄の臼杵湾で仮泊したあと(武蔵から朝霜、岸波、沖波、長波に対し燃料補給)、昭南を経て7月19日までに甲部隊全隻がリンガ泊地に揃った。同泊地滞在中に、従来の遊撃部隊は第一遊撃部隊に改称した。第31駆逐隊は従来どおり各艦・各隊と共に訓練に励んだ。臨時にタンカーの護衛をおこなうこともあった。
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