ガダルカナル島を巡る戦い
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「長波 (駆逐艦)」の記事における「ガダルカナル島を巡る戦い」の解説
8月31日、日本海軍は長波と巻波(舞鶴海軍工廠建造艦、8月18日竣工)により第31駆逐隊を編制した。初代駆逐隊司令に清水利夫大佐(当時、第21駆逐隊司令。海軍兵学校46期)を任命する。第31駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将・海軍兵学校41期)に所属した。第三戦隊司令官栗田健男中将(海兵38期)が指揮する第三戦隊(金剛型戦艦金剛、榛名)と第31駆逐隊(巻波、長波)で前進部隊待機部隊を編成、内海西部で訓練を実施した。9月6日、待機部隊(第三戦隊〈金剛、榛名〉、31駆〈巻波、長波〉)は呉を出撃した。トラック諸島に進出後、連合艦隊旗艦大和で打ち合わせをおこなう。前進部隊本隊に編入後、9月11日にトラック泊地を出撃、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に合流した。第31駆逐隊はガダルカナル島の戦いに関わる海上作戦に加わることとなる。9月中旬の日本陸軍ガ島総攻撃は失敗、日本海軍各艦隊はトラック泊地にもどった。 10月1日、第31駆逐隊に姉妹艦高波(浦賀船渠建造艦、8月31日竣工)が編入され、3隻(長波、巻波、高波)編制となった。清水司令は司令駆逐艦を「高波」に指定した。 10月11日、第二水雷戦隊(旗艦〈五十鈴〉、第15駆逐隊〈親潮、黒潮、早潮〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を命じられた金剛と榛名を護衛することになり、挺身攻撃隊(指揮官栗田健男第三戦隊司令官)としてトラック泊地を出撃した。10月13日から14日にかけての深夜に行われた飛行場砲撃においては、襲来してきた魚雷艇4隻を追い払った。ヘンダーソン飛行場は損害を受けたが、日本軍が知らなかった新規飛行場は離着陸可能であり、ガ島揚陸中の輸送船団に空襲を加えた。輸送船団の苦戦を知った連合艦隊は、前進部隊の重巡妙高と摩耶に飛行場砲撃を命じ、これを二水戦(五十鈴、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)が護衛することになった。妙高と摩耶はガダルカナル島タサファロングの浜辺に突入して擱座炎上した3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を見つつ、10月15日夜、艦砲射撃を敢行した。砲撃は約1時間で終わり、第31駆逐隊も砲撃を行った(発射弾数253発)。戦場を離脱後、10月17日夜に第二艦隊(近藤信竹中将・海兵35期)および第三艦隊(南雲忠一中将・海兵36期)主力と合流し、補給を行いつつ敵を求めて進撃を続けた。10月26日の南太平洋海戦時は、支援部隊・前進部隊(第二艦隊基幹)に所属していた。10月30日にトラックに帰投した。 11月3日、長波を含め支援部隊の一部部隊は外南洋部隊(指揮官三川軍一海軍中将、第八艦隊司令長官)に編入され、トラックを出撃してショートランドに向かう。11月5日、ショートランド泊地において外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将から第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継がれた。ガダルカナル島への鼠輸送に従事していた第三水雷戦隊は、トラック泊地へ戻る。これ以降、ガ島への駆逐艦輸送作戦は田中頼三少将が指揮することになった。 11月6日深夜、第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐指揮下の甲増援隊(第15駆逐隊〈親潮、早潮、陽炎〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈巻波、高波、長波〉、第10駆逐隊〈夕雲、風雲〉)はショートランド泊地を出撃した。途中で米軍爆撃機と小型機20数機の空襲を受け、長波と高波が損傷した。長波は戦死者3名と重傷者7名を出し(長波乗組員によれば戦死4名、ほか陸軍部隊に負傷者)、一番砲塔などに被害があった。甲増援隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した。 「第三次ソロモン海戦」も参照 この頃の連合艦隊は大規模輸送船団によるガ島輸送を計画しており、外南洋部隊増援部隊は第三十八師団(司令官佐野忠義中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船を護衛することになった。11月12日1530、増援部隊(指揮官田中頼三少将、二水戦旗艦「早潮」)は輸送船団を護衛してショートランドを出撃した。だが飛行場砲撃隊と米艦隊の間で夜間水上戦闘となり(第三次ソロモン海戦、第一夜戦)、輸送船団はコロンバンガラ島東方で反転、ショートランド泊地に引き返した。11月13日1530、輸送船団は再びショートランド泊地を出撃した。11月14日になると、輸送船団はヘンダーソン飛行場から飛来した空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) の艦載機、エスピリトゥサント島から飛来した陸軍のB-17重爆、ガ島から来た海兵隊機による八次におよぶ反復攻撃を受けた。零式艦上戦闘機や水上観測機が護衛にあたったが、米軍機の大群を阻止できなかった。11隻の輸送船は6隻が沈没し、佐渡丸と護衛2隻(天霧、望月)が引き返した。長波は陸兵570名を救助した。田中少将(早潮座乗)は駆逐艦と残存の4隻の輸送船をサボ島沖に向かう前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)の後につけさせたが、救助者を乗せた各艦(長波、巻波、江風、涼風)は戦闘に耐えられる状態ではなかった。その後、田中少将は第三次ソロモン海戦第二夜戦が生起した隙を突いて輸送船をタサファロングの浜辺に擱座させた。夜明け後、輸送船は空襲と重砲射撃と艦砲射撃により粉砕され、人員のみガ島に揚陸した。駆逐艦だけになった増援部隊(指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官)は、11月15日2200ショートランドに帰投した。
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ガダルカナル島を巡る戦い
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「磯風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「ガダルカナル島を巡る戦い」の解説
1942年(昭和17年)7月14日、艦隊の再編により第十戦隊(旗艦「長良」、第四駆逐隊、第十駆逐隊、第十六駆逐隊、第十七駆逐隊)は第三艦隊に所属することになった。8月5日、第十七駆逐隊は外南洋部隊に編入された。8月7日にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸してガダルカナル島の戦いがはじまるとソロモン方面へ進出し、ガ島輸送(鼠輸送)に従事する。日本軍はガダルカナル島へ派遣する一木支隊を二梯団に分割し、先遣隊900名を駆逐艦「嵐」、「萩風」、「陽炎」、「谷風」、「浦風」、「浜風」がガダルカナル島へ輸送した。8月19日、キ号作戦支援のため「磯風」は重巡洋艦「鳥海」(第八艦隊旗艦)に従いラバウルを出港する。23日に「鳥海」、「衣笠」と共にショートランド泊地に到着し、その後「鳥海」は「衣笠」、駆逐艦「夕凪」と共に同泊地を出発して「磯風」は残置された。24日、ショートランド泊地に停泊していた第三十駆逐隊、「磯風」、「江風」は、先行した駆逐艦「陽炎」と合流した上で、ガダルカナル島のアメリカ軍基地砲撃と同島周辺の米艦隊攻撃、ガダルカナル島へ向かう一木支隊第二梯団の護衛を命じられる。日の出前、「睦月」、「江風」、「弥生」、「陽炎」はガ島砲撃に成功。「磯風」はアメリカ軍潜水艦と交戦したため、陸上砲撃には加わっていないとされる。同日、第二次ソロモン海戦で日本軍は空母「龍驤」を喪失し、基地航空隊の航空攻撃も戦果をあげられず敗北した。 「神通 (軽巡洋艦)#ガダルカナル島の戦い」も参照 8月25日午前5時40分、「睦月」、「江風」、「磯風」、「陽炎」、「弥生」はガダルカナル島へ向かう第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)「神通」指揮下の一木支隊第二梯団輸送船団と合流する。直後の午前6時からアメリカ軍機による空襲を受け「神通」が中破(田中司令官は旗艦を「陽炎」に変更)、駆逐艦「睦月」と特設巡洋艦「金龍丸」が沈没した。これによりガ島上陸作戦は中止された。「神通」と「涼風」はトラック泊地へ撤退。「弥生」、「第一号哨戒艇」、「第二号哨戒艇」が沈没艦生存者を乗せてラバウルへ向かう。26日夕刻、田中司令官は「磯風」艦長に船団の指揮を委任すると、燃料不足の「陽炎」、「海風」と共にショートランド泊地へ先行し、「磯風」は「江風」、哨戒艇2隻、輸送船「大福丸」、「ぼすとん丸」をショートランド泊地に送り届けた。その後、第十一航空艦隊の命令により同泊地にて「海風」、「磯風」は兵員約400名と1300名分の補給品を搭載した。27日、約450名の陸兵が分乗した「磯風」と第二十四駆逐隊はショートランドを出港し、第二十駆逐隊と合同してガダルカナル島上陸を企図するが、アメリカ軍機の襲撃により駆逐艦「朝霧」沈没、「白雲」大破、「夕霧」、「天霧」損傷という損害を出してショートランドへ撤退した。30日、駆逐艦「夕立」とガダルカナル島陸兵輸送任務を交代し、「磯風」に乗船していた一木支隊約130名は「夕立」に移乗して出港した。だが、「磯風」以下の駆逐艦群は陸海軍の命令系統の混乱にふりまわされて出撃できなかった。なお、「夕立」は31日に陸軍兵のガダルカナル島上陸を成功させ、アメリカ軍機の空襲を排除して帰投している。 その後、第十七駆逐隊各艦は水上機母艦「日進」、「千歳」、軽巡洋艦「川内」、「由良」、他駆逐隊隊と共同してガダルカナル島への強行輸送作戦(鼠輸送)に従事した。 詳細は「ラビの戦い」を参照 ガ島を巡る戦いが始まった頃、日本軍はニューギニア島南岸の都市ポートモレスビー攻略を目指して陸路からのポートモレスビー作戦を実施中であった。8月下旬には、ミルン湾ラビに海軍陸戦隊が上陸した。連合軍飛行場の占領が主目的であった。8月24日と28日の揚陸作戦には、磯風以外の17駆3隻(浦風、谷風、浜風)が第18戦隊(天龍、龍田)指揮下で参加している。その後も浜風が常に同方面にあって、駆逐艦嵐や第30駆逐隊と共に兵員・物資輸送、対地支援砲撃、撤収作戦などに従事した。だが揚陸後の海軍陸戦隊は連合軍の反撃により大損害を受け、継戦能力を喪失する。第八艦隊は9月5日までに部隊を撤退させた。 9月10日、大発動艇を破壊されて移動手段をなくし取り残されていた佐世保第五特別陸戦隊を撤収させるため、磯風は第30駆逐隊の指揮下に入ると駆逐艦弥生と共にラバウルを出港する。9月11日、B-17、B-25約10機による空襲を受け16時15分に弥生は撃沈されてしまった。磯風は回避行動を取ったため弥生乗組員の救助が出来ず、陸戦隊救援作戦も中止してラバウルへ避退した。天龍、浜風による捜索も失敗。9月21日、磯風は望月と共にラバウルを出撃、翌日友軍と協力して弥生のカッターボートを発見し10名を救助した。その日のノルマンビー島救出作戦は失敗した。25日に望月を率いて再出撃、ノルマンビー島に上陸していた弥生乗組員83名を救助する(磯風乗組員の回想では、磯風に57名収容)。同日、第17駆逐隊は外南洋部隊から除かれた。磯風は9月28日をもって第18戦隊の指揮下を離れた。 10月13日、第17駆逐隊は機動部隊前衛(前進部隊)に編入された。10下旬には南太平洋海戦に参加。25日夜半、第七戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦鈴谷)前方を航行していた磯風はアメリカ軍飛行艇から夜間雷撃を受けるも、被害はなかった。26日、南雲機動部隊とアメリカ軍機動部隊は互いに攻撃隊を送り込み、双方に損傷艦や沈没艦が出た。アメリカ軍機動部隊は敗走を開始した。ただし日本軍もヘンダーソン飛行場の占領に失敗した。 戦闘後、磯風は姉妹艦と共に損傷艦の内地回航護衛を命ぜられ、11月2日にトラックを出港した。佐世保入港後の同月27日、第17駆逐隊第2小隊(磯風、浜風)は第五戦隊(司令官大森仙太郎少将:妙高、羽黒)の指揮下に入り、横須賀へ向かう。横須賀到着後は海軍陸戦隊、陸軍第六飛行師団要員、軍需物資を積載。30日、第五戦隊と共に横須賀を出港してトラック泊地へ向かった。12月4日、磯風、浜風は前進部隊に編入される。連合艦隊よりラバウルへ向かうよう命令された。5日、トラック泊地着後すぐにラバウルへ向かい8日早朝着。物資揚陸後トラックへ向かい、10日到着をもって磯風、浜風は第五戦隊の指揮下を離れた。
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ガダルカナル島を巡る戦い
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「高波 (駆逐艦)」の記事における「ガダルカナル島を巡る戦い」の解説
9月19日、日本海軍はソロモン諸島に陸軍部隊を輸送する『沖輸送』を実施することになり、横須賀鎮守府からは駆逐艦2隻(高波、朝潮)が呉鎮守府司令長官の指揮下に入った。高波は沖輸送第一船団に所属し、輸送船賀茂丸(日本郵船、8,524トン)と陸軍病院船波上丸(大阪商船、4,731トン)を第46号哨戒艇とともに護衛し、9月27日に佐伯を出撃する(第46号哨戒艇は途中までの護衛)。しかし目的地ラバウルを目前にした10月7日、第一船団は.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯03度46分 東経151度20分 / 南緯3.767度 東経151.333度 / -3.767; 151.333の地点でアメリカ潜水艦スカルピンに襲撃され、波上丸が沈没した。この『沖輸送』参加中の10月1日付で、高波は第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将・海軍兵学校41期:旗艦五十鈴)麾下の第31駆逐隊に編入された。同駆逐隊司令は清水利夫大佐(前職、第21駆逐隊司令)。清水司令は高波を31駆の司令駆逐艦に指定した。護衛任務を終えた後はトラック諸島に回航され、10月10日に到着した。 10月11日、第二水雷戦隊(軽巡洋艦五十鈴〈二水戦旗艦〉、第15駆逐隊〈親潮、黒潮、早潮〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を艦砲射撃する第三戦隊(金剛型戦艦2隻〈金剛、榛名〉。司令官栗田健男中将・海兵38期)を護衛してトラックを出撃する。対するアメリカ軍は10月11日-12日のサボ島沖海戦で重巡古鷹と駆逐艦3隻(吹雪、夏雲、叢雲)を撃沈して勝利をおさめたものの、大小の損害を受けて消耗した米艦隊(指揮官ノーマン・スコット少将)もガ島海域から撤収した。10月13日から14日にかけての深夜に行われたヘンダーソン基地艦砲射撃で、第15駆逐隊・第24駆逐隊は第三戦隊(金剛、榛名)の直衛、第31駆逐隊は警戒隊、応援に派遣された第19駆逐隊はガ島〜ルッセル諸島の哨戒隊として行動、「長波」がアメリカ軍魚雷艇を撃退した。ヘンダーソン飛行場はかなりの損害を受けたが、航空機42機、B-17重爆6機、日本軍が知らなかった新造滑走路(戦闘機用)が健在だった。14日深夜〜15日0017には三川中将直率隊(重巡〈鳥海、衣笠〉、駆逐艦〈天霧、望月〉)によるヘンダーソン飛行場砲撃が実施されたが、二回の艦砲射撃を受けても同基地はいまだ稼働航空機を多数残していた。 一方、第四水雷戦隊(司令官高間完少将、旗艦「秋月」)が護衛していた高速輸送船団(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸、笹子丸、埼戸丸)は15日朝の時点でガ島に物資・重火器・弾薬・人員の約8割を揚陸していた。ところが、ヘンダーソン飛行場よりアメリカ軍機のべ129機が襲来して輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を喪失、揚陸した物資もアメリカ空母ホーネットの艦載機・ガ島航空隊・アメリカ艦隊の艦砲射撃により16日の時点で大部分を焼き払われている。輸送船団の苦戦をみた山本五十六連合艦隊司令長官は15日9時15分に重巡洋艦2隻にガ島飛行場砲撃を下令した。第三戦隊とともにガダルカナル島を後にした第二水雷戦隊は、飛行場砲撃隊に指定された第五戦隊の重巡2隻(妙高、摩耶)の護衛に二水戦4隻(旗艦〈五十鈴〉、第31駆逐隊〈高波、巻波、長波〉)を加勢させる形で兵力を分割した。第五戦隊は10月14日夜にガダルカナル島タサファロングの浜辺に突入して撃沈された高速輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を見つつ、10月15日夜に艦砲射撃を敢行した。砲撃は約1時間で終わり妙高は20cm砲弾476発、摩耶は20cm砲弾450発を発射、第31駆逐隊も253発の砲撃を行った。戦場を離脱後、10月17日夜に第二艦隊(司令長官近藤信竹中将・海兵35期)および第三艦隊(司令長官南雲忠一中将・海兵36期)主力と合流し、補給を行いつつ敵を求めて進撃を続けた。10月26日の南太平洋海戦における第二水雷戦隊は、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊長官:旗艦愛宕)に所属し、第四戦隊(愛宕、高雄)、第三戦隊(金剛、榛名)、第五戦隊(妙高、摩耶)、第二航空戦隊(隼鷹)と共にアメリカ軍機動部隊と交戦した。10月30日にトラックに帰投した。 11月3日、第二水雷戦隊は外南洋部隊増援部隊としてトラックを出撃してショートランドに向かい、5日11時30分到着した。同地で増援部隊指揮官は橋本信太郎第三水雷戦隊司令官から田中頼三第二水雷戦隊司令官に変更され、橋本三水戦司令官は軽巡川内以下第三水雷戦隊各艦をひきいてトラック泊地へ戻った。田中司令官はさっそくガ島への鼠輸送を指揮することになった。11月6日深夜、甲増援隊(第15駆逐隊〈親潮、早潮、陽炎〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈巻波、高波、長波〉、第10駆逐隊〈夕雲、風雲〉)はショートランドを出撃。途中でB-17 の空襲を受け、高波は軽傷者1名、長波は負傷者16名を出した。輸送隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した。 詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照 11月12日、増援部隊(早潮〈二水戦旗艦〉、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、巻波、天霧、望月)は第三十八師団(佐野忠義中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船とともにショートランドを出撃する。しかし第三次ソロモン海戦第一夜戦と翌日昼間空襲で3隻(比叡、暁、夕立)が沈没しヘンダーソン飛行場砲撃が中止されたことを受け、命令に従い輸送船団は一旦ショートランド泊地に戻った。外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)は西村祥治第七戦隊司令官(旗艦「鈴谷」)ひきいる外南洋部隊支援隊(巡洋艦〈鈴谷、摩耶、天龍〉、駆逐艦〈夕雲、巻雲、風雲、朝潮〉)にガ島飛行場砲撃を命じ、自らも主隊(鳥海、衣笠、五十鈴)をもって掩護にあたった。支援隊は13日深夜に飛行場砲撃を実施したが、重巡2隻(鈴谷、摩耶)の砲撃では飛行場を破壊できず、14日昼間のアメリカ軍機の空襲(飛行場から飛来)で衣笠を撃沈され、各艦(鳥海、摩耶、五十鈴)も損傷を受けている。 一方の輸送船団(第二水雷戦隊)も、14日夜の揚陸を予定して13日15時30分ショートランド泊地を出撃、支援隊飛行場砲撃成功の報告を受けてガ島へ向け南下していた。衣笠が沈没しつつあったころ、輸送船団もヘンダーソン飛行場から飛来した空母エンタープライズの艦載機、陸軍機、海兵隊機による8度にわたる反復攻撃を受ける。11隻いた輸送船のうち6隻が沈没、佐渡丸が駆逐艦2隻(天霧、望月)に護衛されて退避した。田中少将は駆逐艦と残存の輸送船4隻をサボ島沖に向かう前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官:旗艦〔愛宕〕)の後につけさせてガ島へむかった。前進部隊とウィリス・A・リー少将指揮下のアメリカ艦隊(戦艦〈ワシントン、サウスダコタ〉、駆逐艦4)との間に第三次ソロモン海戦第二夜戦が生起すると、田中司令官は第15駆逐隊(親潮、陽炎)をして米戦艦を追撃させた(親潮は魚雷発射、1本命中報告〈誤認〉、陽炎は魚雷発射せず)。自身は輸送船団と共に反転した。日本艦隊から2隻(霧島、綾波)が沈没し、米戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)が戦場から離脱した段階で、近藤中将は輸送船団の突入を下令する。外南洋部隊指揮官(三川中将/第八艦隊司令長官)は通常の揚陸を指示したが、田中司令官は第八艦隊の命令を無視する形で、輸送船4隻(広川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山東丸)をタサファロングの浜辺に擱座させた。人員約2000名は揚陸したものの、日中の空襲とアメリカ艦隊の艦砲射撃により輸送船4隻は炎上、揚陸物資・弾薬・重火器のほとんどを喪失した。第二水雷戦隊は11月15日にショートランドに帰投した。
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