第十六駆逐隊
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1943年(昭和18年)2月1日より3回におよぶガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に参加、大成功を収めた。第一次作戦では巻雲が沈没、巻波が大破した。第二次作戦では舞風が大破し、江風と黒潮が損傷した。第三次作戦では磯風が大破した。駆逐艦が次々と損傷する激しい任務を雪風は無傷で完遂した。 最終の第三次作戦を前に、この作戦を直接指揮した第八艦隊司令部は駆逐艦の出撃を渋っている。二回の撤収で既にアメリカ軍に作戦が見破られたとの懸念に加え、連合艦隊は駆逐艦の喪失激減に悩んでおり、第八艦隊司令部は、第三次作戦は方式を変更し、駆逐艦ではなく大発などの舟艇により島伝いに脱出させようとの意見を出した。これに対し陸軍側は、田沼参謀次長、第十七軍の宮崎参謀長らが海軍の作戦会議に出席し、舟艇による脱出は成功の可能性が下がるとして駆逐艦の出撃を要請。議論が平行線を辿った時、雪風の菅間艦長と浜風の上井艦長から「予定通り駆逐艦でやるべき」との発言があり、臨席していた駆逐艦長全員もこれに賛同し、第三次作戦も駆逐艦隊で行う事が決定した。南東方面艦隊司令部は参加する駆逐艦の四分の一(五隻)沈没、四分の一損傷の合計十隻の損害を予想したが、はるかに少ない損害でガダルカナル島撤収作戦は予想以上の戦果をあげた。 2月末、雪風は第16駆逐隊の僚艦時津風と共に第三水雷戦隊司令官木村昌福少将(旗艦白雪に乗艦)の指揮下に入り、第11駆逐隊の白雪、第8駆逐隊の朝潮、荒潮、第9駆逐隊の朝雲、第19駆逐隊の浦波、敷波と共に輸送船団8隻を護衛してラエへ向かった。3月2-3日、アメリカ軍・オーストラリア連合軍機の空襲(反跳爆撃)によって輸送船団が全滅し、3000人が戦死するビスマルク海海戦が発生した。3月2日の空襲の際、旭盛丸が沈没すると、雪風、朝雲は旭盛丸に乗っていた陸軍第58師団兵918名を救助し、一旦船団を離れ目的地のラエに急行する。雪風に乗せていた第51師団師団長以下司令部30名と共に無事揚陸させた。雪風と朝雲は翌3日早朝、輸送船団に復帰するが、この日も連合軍爆撃隊の空襲を受け輸送船団は全滅、護衛の駆逐艦も半数(8隻中4隻)が撃沈された。雪風は時津風乗員を収容した後(時津風は3月4日、日本軍航空隊およびアメリカ軍航空隊の爆撃で沈没)、朝雲、敷波、浦波と共に戦場を一度は離脱。浦波と救援に駆け付けた初雪に救助した兵を移乗させた後、深夜、朝雲、敷波と共に再び戦闘海域に戻ると、漂流中の荒潮を発見し生存者100名を救助した。 3月4日、雪風はカビエン寄港の後5日ラバウルに到着する。救助した兵を病院船まで送ると、6日朝に工作艦山彦丸に横付けして艦の整備を始めたが3月5日の ビラ・スタンモーア夜戦で沈没した2隻の駆逐艦(村雨、峯雲)に代わりコロンバンカラ方面への輸送任務に出撃するよう命令を受けたため同日午後整備を中止。3月7日早朝、雪風はラバウルを出発し、3月8日、朝雲、長月、浦波、敷波と共にコロンバンガラ島輸送作戦を実施する。13日、今度は朝雲、長月と3隻でコロンバンガラ島輸送に従事する。この時、3月5日のビラ・スタンモーア夜戦で撃沈された村雨と峯雲の生存者(第2駆逐隊司令と種子島洋二村雨艦長含む)を収容し、ショートランド泊地へ送り届けた。その後、約2か月間ソロモン海域で輸送任務に従事した。 この頃、第16駆逐隊で無事に行動していたのは雪風だけで、天津風は修理の後に南東方面部隊に編入、初風は7月まで修理を行っていた。4月2日から3日にかけて雪風は天霧、望月と共にサンタイサベル島レカタ基地への輸送任務に従事。3月29日の天霧らの輸送分と併せて兵員300名、弾薬、糧食など250トンを同基地へ運んだ。同3日、レカタを出発するとブインで第38号哨戒艇と合流後、亜豊丸、宝運丸、厚丸を護衛してラバウルへ向かった。5日ラバウル着。10日には雪風、五月雨、夕雲、秋雲によるニューギニア島フィンシュハーフェンの輸送任務が実行される。雪風と五月雨はニューブリテン島南側航路でフィンシュハーフェンを目指したが、途中で偵察隊に発見されたためラバウルへ帰投。同島北側航路でフィンシュハーフェンへ向かった夕雲、秋雲はニューブリテン島ツルブへ目的地を変更した。12日、雪風と五月雨はニューブリテン島北側を通って再びフィンシュハーフェンへ向かったがツルブへ目的地を変更し、13日に兵員、物資を揚陸した。18日、水上機母艦神川丸をトラックまで護衛。21日にトラック到着。4月27日、第16駆逐隊司令が荘司大佐から島居大佐に交代となり、雪風に着任した。 1943年(昭和18年)5月、アリューシャン列島アッツ島にアメリカ軍が上陸してアリューシャン方面の戦いが不利になったため、トラック泊地の連合艦隊主力艦艇は順次内地へ帰投する。5月3日、雪風は第十戦隊の阿賀野、夕雲、秋雲と共に第一航空戦隊の瑞鶴と瑞鳳を護衛してトラック泊地を出発。5月8日に呉に到着した。 5月11日、大和、榛名、雲鷹、沖鷹らの護衛のため大分沖に移動の後、12日、大和、榛名を護衛して呉に入港(雲鷹、沖鷹は長波らに護衛され横須賀に向かった)。ここで乗員に休暇が与えられる予定だったが、アリューシャン方面の戦局が予想以上に悪化したため、雪風にも第一航空戦隊護衛として出撃命令が下る。5月23日までに木更津沖に向かい、北方作戦出撃の準備を進めるが、29日にアッツ島陥落の報を受け出撃は中止。横須賀へ回航の後、6月1日に改装のため呉に入港した。呉での改装では25mm機銃の増設とともに、当時の最新兵器であった逆探が装備されている。
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