第二次作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 02:18 UTC 版)
「西部戦線 (南北戦争)」の記事における「第二次作戦」の解説
第二次作戦は1863年の春に始まり最終的に成功した。これは南北戦争の中でもグラントの最大の偉業と考えられており、また軍事史の中の古典的作戦でも最大のものと見られている。グラントは、その補給線が脆弱であり、川を使った接近が繰り返し失敗していたので、北西からミシシッピ川を通って攻撃するのは不可能と判断した。冬季の雨が終わりぬかるんだ道でも通れるようになったときに、グラントは大挙してミシシッピ川の西岸に軍隊を繰り出した。4月16日、アメリカ海軍の砲艦と輸送船がビックスバーグの大砲の下を擦り抜け、川を渡ってビックスバーグの南、ブルーンズバーグに上陸させることに成功した。グラントはその意図を隠すために2つの陽動作戦を用意した。ビックスバーグの北にいるシャーマンの部隊による陽動とミシシッピ川の中央からベンジャミン・グリアソン大佐に行わせた大胆な騎兵隊の襲撃(グリアソンの襲撃)であった。シャーマンは結果が出なかったが、グリアソンは成果を上げた。グリアソンはかなりの数の南軍部隊をおびき出し州内に分散させた。 グラントはこの作戦で南軍の2つの部隊と対峙していた。1つはビックスバーグの守備隊であり、ジョン・C・ペンバートンが指揮していた。もう1つはこの戦線の総指揮官ジョセフ・ジョンストンが指揮するジャクソンの部隊であった。グラントは単純に北にあるビックスバーグに向かうよりも、2つの南軍の通信線(かつ補給線)を遮断することを選んだ。グラント軍は素早く北東のジャクソンに向かった。一方でグラントには限られた補給線しかなかった。軍事作戦の伝統的な歴史から見れば、グラント軍はその補給線から解き放たれている状態であり、5月12日のレイモンドの戦いで存在しない補給線を遮断しようとしたペンバートンを戸惑わせた。実際のところ、グラントは人馬の食料のみを地域経済に頼っていたが、その軍隊に弾薬、コーヒー、堅パン、塩などの物資を運ぶ荷車の流れが常に付いていた。 シャーマンの軍団が5月14日にジャクソンを占領した(ジャクソンの戦い)。全軍は西に転じてビックスバーグの前線にいるペンバートンと向かい合った。決戦はチャンピオンヒルで行われた(チャンピオンヒルの戦い)。ペンバートンは最後の抵抗を試みた後、町の周りの塹壕の内側に退いた。グラント軍はビックスバーグの戦いの初めに2回、南軍に総攻撃をかけ大きな損失を被った後は長い包囲戦に移った。 ビックスバーグの兵士や市民は北軍の砲撃や差し迫ってきた飢えに苦しむようになった。ジョンストン将軍が援軍に到着するのを期待していたが、ジョンストンは行く手を遮られ、また慎重になりすぎていた。7月4日、ペンバートンは軍隊と市ともどもグラントに降伏した。その前日のゲティスバーグの戦いでのロバート・E・リー将軍の敗北と共に、ビックスバーグは南北戦争の転回点と考えられている。7月9日までにバンクスがハドソン港を占領(ポートハドソンの包囲戦)した後、ミシシッピ川全流域が北軍の支配下に入り、南軍は分断された。
※この「第二次作戦」の解説は、「西部戦線 (南北戦争)」の解説の一部です。
「第二次作戦」を含む「西部戦線 (南北戦争)」の記事については、「西部戦線 (南北戦争)」の概要を参照ください。
- 第二次作戦のページへのリンク