第二次代執行
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「成田空港予定地の代執行」の記事における「第二次代執行」の解説
空港公団は代執行関連作業と並行して15件33筆に対して1971年2月3日に県収用委員会に対して緊急裁決の申立を行った。県収用委員会は、これを反対同盟系グループ・平和の塔グループ・その他個人に分類して審理し、1971年6月12日に空港公団からの取り下げがあった1件3筆を除く14件30筆について緊急裁決をした。明け渡し期日は8月12日とされた。 空港公団は8月13日、期限内に明け渡しが履行されず将来とも履行される見込みがないとされた10件25筆について、県知事に対し代執行請求をおこなった。その後明け渡しがなされたものを除いた以下の5件6筆5080 m2に対し、代執行令書が送付された。代執行の時期は第7・第8・第9・第10地点は9月16日から29日までの間、第18地点は9月20日から10月3日までの間とされた。 収用事件番号 所在 地目第7地点 駒井野字天並野 原野 社会党一坪運動地。16日は加瀬完衆議院議員・木原実参議院議員・県議7人のほか、社青同・国労千葉県共闘など約100人が座り込みを行う。 第8地点 天浪字大里 畑 天浪団結小屋。16日は反対同盟(内田寛一行動隊長、谷川たけ婦人行動隊長、少年行動隊)並びに第4インター・中核派ら約100人が立て籠もる。 第9地点 木の根字横峰 畑 木の根団結小屋。16日は青年行動隊・少年行動隊並びに芝山町議ら約100人が立て籠もる。 第10地点 駒井野字張ヶ沢 山林 駒井野団結小屋。16日は戸村一作反対同盟代表、北原鉱治事務局長以下支援各セクト混成団約150人が立て籠もる。 第18地点 取香字馬洗 山林 小泉よね方家屋(取香)および敷地(古込)。 中でも堅牢なバリケードと地下要塞を備えた駒井野団結小屋がある第20地点の反対派排除は困難を極めることが予想された。また、第18地点は100人余の支援学生らがテントを張るなどして寝泊まりしていたとはいえ反対派農家が生活する民家であり、一坪共有地や団結小屋とは性格が異なることから代執行が行われることには議論があり、友納知事自身も「生活のために反対している土地」の取得には消極的であった。 第一次代執行での教訓から野次馬排除のための後方支援が必要とされたことに加えて対象の地点が分散していることから警察側では代執行にあたり大量の人員で警備を行う必要があり、千葉県警や警視庁だけでなく埼玉県警や神奈川県警からも応援部隊が動員された。さらに代執行の直前に在日米軍の相模総合補給廠から火薬等が盗まれたことにより、代執行中の爆弾テロ発生が警戒された。また警察側の事情として、昭和天皇の訪欧を同月27日に控えておりその警備の関係から25日までには代執行警備を終わらせる必要があったことから、地下構造物を後回しにしてでも地上構造物を最優先して撤去し拠点を潰す方針を採った。 「東峰十字路事件#反対派と警察の作戦計画」も参照 一方、大学臨時措置法が制定され大学紛争もほぼ終息する中で巻き返しを図る新左翼セクトは、"第二次代執行阻止闘争"を「秋の沖縄批准阻止闘争の成否を左右するもの」と位置づけ、代執行予定地に集結した。 代執行初日の9月16日には、第18地点を除く4地点を巡り総勢約1万人が激突した。 代執行の開始早々に、東峰地区で後方支援をしていた神奈川県警特別機動隊がゲリラ部隊の襲撃を受けて潰走した(東峰十字路事件)。この中で3人の警察官が殺害され、現地総指揮官である川上紀一副県知事は代執行中止を検討するが、千葉県警察本部長の進言を受けて続行した。 警察の主力とされた警視庁機動隊は駒井野団結小屋を、社会党一坪運動地と木の根の制圧を済ませた埼玉県警機動隊・千葉県警機動隊は合同で天浪団結小屋を、それぞれ攻めることとなった。排除行動を開始した頃に、警察官死亡の報が警察無線等で伝わり、激昂した機動隊による攻勢は熾烈を極めた。 天浪ではクレーン車の防石・火炎瓶対策に使っていた漁網が学生らによって切断され、バリケードの丸太を倒そうとしたときにワイヤロープも切れてしまった。そこでクレーン車のアームをバリケードの土嚢にぶつけ、さらにそこへ放水することで突破口を開き、正午過ぎに制圧した。 駒井野では激しい火炎瓶攻撃が続き放水車の水も使い果たされたが、煙幕を張って学生らの視界を遮ったうえでショベルカーでバリケードを破壊し、午後0時半過ぎに機動隊が団結小屋内に突入した。高さ10メートルの鉄塔からはなおも学生らによる火炎瓶投擲が続けられていたが団結小屋の撤去作業が開始された。鉄塔が大人数が上に乗って動き回れるほどの強度を持たないことが判明し急遽クレーンで支えようとしたが、午後3時15分に上にいた学生もろとも鉄塔が倒壊。この時火炎瓶の燃料が引火し学生らは火だるまとなった。火炎を吸った学生1人が一時意識不明の重体となったが、友納知事の要請を受けた千葉大学の香月秀雄らが成田赤十字病院で治療に当たり、一命はとりとめた。また、このとき鉄塔の下にいた撤去作業員も巻き込まれて骨折する大怪我を負った。 この他に京成成田駅で改札口にいる機動隊を目掛けて火炎瓶5本が投げられたり、学生集団が自動車を倒して三里塚十字路の四方にバリケードを築き「三里塚解放区」を宣言するなどの動きがあった。セメントを150 t以上もつぎ込んだと言われる駒井野団結小屋の地下要塞の撤去作業はその後2日かけられたが、岩盤機4台がかりでも結局全てを撤去しきれず、そのままA滑走路の下に埋められている。なお、代執行前に台風第25号による浸水があったため、反対派は結局この地下要塞を代執行阻止に活かすことができなかった。堅固な地下要塞を見た代執行関係者らは「この中に立て篭もられたら大変だった」と安堵した。一方、これは偶然の産物ではなく、警察側は毎日の監視で反対派の掘削作業で出される土量を把握し、地下壕がどの方向へどのくらい掘り進んでいるかを分析したうえで、夜間などに"地下に穴があるはずの地表"をパワーショベルで「から掘り」して雨水が流れ込むように予め仕込んでいたことによるともいわれる。 9月19日に友納知事が代執行を延期し翌日の代執行は行わないと発表したが、翌20日に突如機動隊と作業員らが現れ、稲の脱穀をしていた小泉よねを排除して住居を撤去した。第二次代執行は最初で最後となる成田空港問題における民家への代執行実施をもって終結した。代執行の結果、空港公団は93%の地を取得した。 形振り構わない行政の姿勢を目の当たりにした地権者の6,7割がこの後闘争を断念して移転に応じることとなったが、闘争を継続する者に対しては小泉よねへの代執行は逆に火に油を注ぐことになった。一方、塩川正十郎が地方行政委員会で東峰十字路事件が発生した第二次代執行初日と対比して「小泉よねさんの場合は、抜き打ち的にすぽっとやりましたので、これがたいした混乱もなくして目的を達して収用いたしておるのであります。」と述べる等、政府側にはこれ以上犠牲者を出さないためには不意打ちもやむなしと見る者もいた。 国会の地方行政委員会で第二次代執行の報告を行った後藤田正晴警察庁長官は、「相手(反対派)方の動員は延べ12,600人、うち暴力集団が11,500人。警察官の動員数は延べで17,500人、検挙数は472名、うち女120名でございます。殉職者が3名、負傷者は224人でございますが、その内訳は、警察官が206人、うち入院いたしておる者が48名。学生は12名、うち入院5名でございます。ただし、学生はこれ以上に相当の負傷者がやはり出ておると思いますが、彼らはそれが判明しますと逮捕せられるといったようなことで、当方では全員を詳細に知るというわけにはまいっておりません。その他の者が6人でございます。」と述べた。なお、この頃行われた記者会見で後藤田は怒りで体を震わせながら「警官3人が殺されたために、千葉県知事が工事を一時ストップしたいと言ってきたが、そんなことは反対派を喜ばすだけではないか、やると決めたらやるべきだ、と言ってやった。千葉県警本部長が辞表を持ってきたが、こんな紙切れ一枚が何になる、それより部下を殺した犯人をこの長官室まで連れてこいと言ってやった」と語っている。 北原鉱治によれば、使用された火炎瓶は1万5千本で、後日未使用で発見された火炎瓶が更に3千本あったという。反対派の矛先は代執行班や警察だけでなく、空港建設工事に携わる作業員とその家族が寝泊まりする飯場にも向かい、600人以上の作業員が焼け出された。「いったい、オレたちになんの恨みがあるんだ。燃えたのは、オレたちの月賦で買ったテレビや子供たちへのおみやげじゃないか」と彼らはやり場のない怒りを報道陣にぶつけた。 元空港公団職員の回想によれば、第二次代執行でも野次馬が集結し、現場では野次馬相手に商売をしようと屋台までが建っている有様であった。更には石を投げるなどして逮捕された野次馬の中に空港公団の女性職員がいたことが判明したのだという(その女性職員はその後辞職した)。 新左翼学生たちと機動隊の激しい衝突が目立った第二次代執行であったが、農民たちへの直接の暴行などは第一次代執行に比べて少なかったともいわれる。
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1971年2月3日:特定公共事業認定(1970年12月28日)に基づき、空港公団が5件33筆について千葉県収用委員会に対し緊急裁決の申立。 3月20日:県収用委員会が緊急裁決の申立にかかる審理を開始。 6月12日:千葉県収用委員会が、明け渡し期限を8月12日とする第二次収用の緊急裁決を下す。 8月13日:空港公団が、県知事に対し10件25筆について第二次代執行を請求。 8月18日:丹羽喬四郎運輸大臣が反対同盟に会談を申し入れる。 8月24日:反対同盟が運輸大臣との会談を拒否。 9月1日:県知事による土地明け渡しの戒告書が緊急採決地の土地所有者・関係者に対し発送される。 9月6日:駒井野団結小屋に土地収用法違反(収用地内の形質の変更)容疑で千葉県警が家宅捜査。反対同盟が千葉地裁に対し戒告処分取消請求と代執行停止申立を行う。 9月7日:県内に甚大な被害をもたらした昭和46年台風第25号により、反対派の地下要塞が水浸しとなる。 9月10日:天浪団結小屋に土地収用法違反容疑で千葉県警が家宅捜査。 9月11日:県知事による代執行令書が第二次代執行地4件5筆の関係者72人に対して発送される。 9月13日:警察庁において、関東管区各警察本部長レベルが出席して第二次代執行の警備実施計画について会議が開かれ、千葉県警が出してきた計9000人を動員する計画に警察庁が難色を示し、3分の2の6400人に動員規模を削減される。 9月15日:午前2時10分頃、小松製作所に置いてあった4台のブルドーザーに火炎瓶が投げられ、配線などを焼く。午後3時頃、駒井野団結小屋を捜索中の機動隊員が、草むらの中から火炎瓶250本・ガソリン入りタンク5個・濃硫酸入り試験管50本・塩素酸カリウムをしみこませた濾過紙30枚等を発見。中核派が初めて独自の記者会見を農民の同席なく三里塚で行い、第二次代執行での抵抗作戦の意味を全学連委員長が語る。 9月16日:5件6筆の建設予定地に対し、第二次代執行が開始される。数百名の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃。この日の逮捕者375名。小泉よねあての代執行令書が発送される。 午前5時:大清水付近で三里塚へ向かう警視庁部隊の車両に玉ねぎ型の爆弾4発、マジックインキの大瓶を転用した爆弾1発が投げられ、うちマジックインキ爆弾のみが破裂。警察部隊の1人が負傷。同じ頃、三里塚十字路の西約2キロの路上に太釘の出た板が多数置かれ、車両部隊の数台がパンク。福島小隊(堀田大隊所属)が三里塚に向けて神奈川署から出発。 午前6時、大清水の県道を学生が木材などでバリケード封鎖。 午前6時45分:天浪で作業開始宣言。 午前7時頃:東峰十字路近辺で神奈川県警から応援派遣されていた臨時編成の特別機動隊(堀田大隊)がゲリラ部隊の急襲を受けて潰走(東峰十字路事件、逃げ遅れた福島小隊長を含む隊員3名が火炎瓶による全身火傷・鉄パイプ等での殴打により殉職、80名以上の隊員が重軽傷を負う)。 午前7時8分:本部無線に「現在地不明、多数のゲリラと交戦中」と連絡。 午前7月13分:堀田大隊長からの報告により攻撃を受けている大隊の所在が確認され、朝日台三差路付近にいた管区機動隊関根大隊が応援出動。 午前7時40分:駒井野団結小屋南西側の大清水地区を走っていた千葉県警察のパトカーが火炎瓶で放火され炎上。 午前8時前:木の根でロードローラーが火炎瓶により炎上し、運転手が火傷を負う。 午前8時すぎ:木の根団結小屋での排除作業が始まる。滑走路予定地西側の労務者宿舎3棟が放火により全焼。 午前8時8分:駒井野で機動隊に出動要請。 午前8時17分:成田赤十字病院に搬送中の福島小隊長が死亡、「運び込まれた警察官4人のうち1人が死亡」との一報が入る。 午前8時35分頃:大清水三叉路で検問を行っていた警視庁第九機動隊と過激派の学生たちが衝突。過激派が投擲した爆発物により同隊の中隊長(警部)らが負傷。 午前8時55分:天浪で機動隊に出動要請。 午前9時:川上千葉県副知事が「死亡事故が起きたので、作業中止を」と荒木貞一千葉県警警備本部長に申し入れるが、荒木本部長は「死亡した警官は、中止を喜ばないはずです。代執行を完全に終了することが、霊を慰める唯一の道です」と拒否。 午前9時すぎ:京成成田駅で急行電車から降りてきた赤ヘルの学生ら二十数人が旗竿を突出して警官隊と衝突。石や火炎瓶が投げつけられ、待合室が焼かれ一般客が逃げまどう。駅前の乗用車のガラスが割られ、土産物屋にも被害。 午前9時15分:埼玉県警・千葉県警連合機動隊が天浪団結小屋排除に出動。 午前9時35分:UPI通信が「成田空港で警察殺さる」と全世界に打電。 午前9時40分:柏村巡査部長が全身打撲によるショックで、成田市藤倉病院で死亡。 午前10時5分:森井巡査が頭蓋骨骨折で空港公団分室救護室で死亡。 午前10時15分:空港南端の報道用ヘリポートに過激派学生が侵入して火炎瓶を投げつけ、TBSがチャーターした朝日ヘリコプター(現・朝日航洋)の機体が炎上。 午前10時45分:社会党一坪運動地での排除が行われ、労組員・社青同系学生らが糞尿弾や投石を行うが千葉県警機動隊により数十分で排除される。11時15分に立ち木切り倒し等の代執行が完了する。 午前11時前:白ヘルメットの反戦グループ十数人が三里塚駐在所になだれ込み、ガラスや木戸を破壊したうえ、勤務中だった巡査部長に「てめえデカか、殺すぞ」と火炎瓶で脅す。駐在所員の妻が学生らに対し、「中には一歩も入れません」と立ち向かう。 正午過ぎ:埼玉県警機動隊が出動していた木の根団結小屋で、地下壕にこもる反対派が説得に応じ全員外に出る。午後1時40分、代執行終了が宣言される。 午後0時3分:天浪団結小屋が制圧される。 午後0時30分:駒井野団結小屋に機動隊が突入する。 午後3時15分:駒井野団結小屋の鉄塔が倒れる。 午後3時35分:天浪団結小屋における代執行班による撤去と井戸の埋め立てが完了する。 この日、建設現場各所で作業小屋等35棟が放火される。 9月17日:千葉県警が、反対同盟戸村代表宅・各団結小屋などの反対派拠点や都内の党派事務所13ヶ所を「殺人・殺人未遂・公務執行妨害・凶器準備集合・爆発物取締罰則違反」の容疑で一斉に家宅捜索を行う。 9月18日:杉並署高円寺駅前派出所が爆破される。杉並区上萩の陸橋の交通看板に「叛軍」「成田空港建設反対」と墨で上書きしたうえに同陸橋が火炎瓶で放火される。 9月19日:友納知事が報道陣に対し警備陣の疲れなどを理由に代執行を21日に延期すると発表。これを受け支援学生の主力部隊3,000人が帰京。 9月20日:1,000人の機動隊と伴に代執行実施班220人が現れ、小泉よね宅を強制収用。友納知事の会見を受けて、支援者らが引き上げたところを急襲される形となり、現場に居た反対派200人は、不意を突かれて抵抗する間もなかった。よねは住まいから連れ出されたうえ、前歯を折る怪我をした。よね宅の撤去は2時間で完了、午後2時55分第二次行政代執行が終了する。最初で最後の居住宅に対する行政代執行となった。 同日夜から翌日にかけて、青年行動隊主導のもと学生集団が小泉よね宅への「騙し討ち」への報復として工事関係業者の飯場など20棟を火炎瓶で襲撃して回った。火災で焼け出された者達の中には、子供がいる出稼ぎの一家も含まれており、脱出させようと身を盾にした帝国警備の警備員十数人が、反対派によって袋叩きにされる。 代執行期間中の反対派ゲリラは23件、飯場28棟が放火で焼かれ、工事作業員650人が焼け出された。更にダンプカー・ブルドーザー・警察車両が焼き討ちされ、被害総額は3億円を超えた。警察発表によれば、動員された機動隊は述べ22,000人、反対派は12,945人、逮捕者475人、警察官の死者3人・重軽傷者206人であった(反対派の負傷者は多数とのみ)。 9月21日:「地下壕」に立て篭もっていた農民3名が機動隊によって排除され、うち農民1名が逮捕される。機動隊3,000名が捜索中に遭遇した反対派支援者ら約60人を連行。その夜、大清水に設営された「野戦病院」に機動隊約100名が突入。深夜、機動隊約500名が環視する中、反対派による飯場への放火で焼け出されて激昂した工事作業員が無人の千代田団結小屋「市民の家」を放火、全焼させる。 9月22日:代執行に出動した警視庁第四機動隊の独身寮が爆破される。 9月27日:反対同盟が、友納知事・川上紀一副知事らを、9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関して「殺人未遂」で、千葉地方検察庁に告発する。 10月1日:青年行動隊の三ノ宮文男が自殺。 10月11日:友納知事や県議らが「これ以上知事に代執行させず、政府・空港公団がもっと真剣に反対同盟と話し合え」と、運輸省航空局長と空港公団総裁に申し入れ。これに対し内村信行航空局長が「学生の闘争拠点はともかく、農民の財産については代執行の請求をするつもりはない」と約束した。
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