第一次代執行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 06:50 UTC 版)
「成田空港予定地の代執行」の記事における「第一次代執行」の解説
前年に県収用委員会が採決した対象地6件について、空港公団は1971年1月14日から裁定に基づく損失補償金総額190万円の支払いを開始したが、地権者は現金書留の受け取りを拒否し、期限である1月31日を迎えても明け渡されていなかったことから、友納武人千葉県知事は2月2日に2月12日までの明け渡しを定めるとともに、それまでに明け渡しがない場合は代執行を行う旨の戒告書を送った。ここでも明け渡しがされなかったことから2月22日から3月14日までに代執行を行う旨の代執行令書が送付された。 2月22日から代執行が始まると、反対同盟は立ち木やバリケードに体を縛り付けて撤去を阻み、予め青年行動隊らが掘り進めていた穴ぐらに決死隊が立て籠もることで代執行を阻害しようとした。また、茨城県の農民運動家である山口武秀の提案により、反対同盟はこれまで反対運動に加わらなかったために敵意を向けていた周辺地域に対してもビラや宣伝カーを使って代執行の現場を見に来るよう呼びかけていたことで、多くの野次馬が集結した。団結小屋に立て籠もる同盟員には、陣中見舞いを持った親戚や友人だけでなく、既に自分の土地を売り渡した条件派も激励に訪れた。 代執行初日の22日は、中核派や反帝学評などの過激派約2,350人が反対同盟とともにデモ行進・アジ演説・突撃訓練などの示威行為を代執行予定地で繰り返し、代執行は早々に中止された。翌23日も機動隊は投入されず、空港公団は団結小屋に手を出せずに大きな動きがないままに終わった。24日に少年行動隊が代執行実施班に体当たりして押し返し、これに対してガードマンが警棒を用いたことで小学4年生の男児と中学3年生の女生徒が負傷して入院した。このような事態と群衆の中に紛れていた支援学生らの扇動を受けて、義憤に駆られた野次馬が投石などの妨害を行うようになり、代執行側の旗色が悪くなった。25日から機動隊が投入されたが野次馬の投石などにより代執行は引き続き進展せず、26日に友納知事が翌27日から3月1日までの代執行の停止を表明したことで仕切り直しとなった。 代執行が再開された3月2日も野次馬の妨害等により代執行の成果は上がらなかったが、翌3日に約3,000人に増強された機動隊が現地に投入され、代執行現場に通じる道での検問を実施して野次馬を阻んだことで形勢が逆転した。大雨が降り関東ロームが溶けて泥濘む中、屈強な公団臨時職員ら(反対同盟から「毀し屋」と呼ばれた)が代執行部隊の先頭に立ち、鎖で身体を括りつけた農民ごと立ち木を切り倒すなど、非情に徹して次々と立ち木や砦を撤去していった。「毀し屋」は木の上の農民を振り落とす際に網を張ったが、網にかからず地面に叩きつけられて骨折する者が続出した。「毀し屋」は構わずになおも作業を続け、その場にいた機動隊員が思わず同情したり止めに入るほどであった。 4日に代執行が一時停止され、前日の事態を受けた反対派はこの間に火炎瓶を準備して翌日に備えた。5日及び6日には代執行側が重機を投入し、反対派が投げつけた火炎瓶を受けて火だるまとなった重機のオペレーターが転げ回るなどの壮絶な攻防が行われた。バリケードに開かれた突破口からの機動隊突入により団結小屋は陥落し、代執行の終了宣言が出された。 13日間の激突での延べ動員数は反対派約2万人、機動隊約3万人。機動隊・空港公団職員・県職員・作業員のあわせて1,071人が反対派の竹槍・投石・火炎瓶等の攻撃で負傷した。中には火炎瓶をまともに食らうなどして重傷を負い、退職を余儀なくされた者もいた。反対同盟によれば逮捕者は461人で反対派の負傷者は606人。 反対派が作った穴ぐらは代執行では撤去されずに残された。一時空港公団と反対同盟の間にその取扱を巡って協定が結ばれる局面もあったが、青年行動隊らがなおも掘削・補強を続けたことを違反であるとして空港公団は協定を破棄、作業を再開し、穴ぐらは25日に撤去された。このときは警察が代執行同様に野次馬対策の検問を行っただけでなく、代執行での"敗北"が既に世間に印象づけられたことや「地下壕」撤去が団結小屋の攻防ほどテレビ映えするものでなかったため、反対同盟は代執行の際のようにマスコミや野次馬の支援を得られなかった。
※この「第一次代執行」の解説は、「成田空港予定地の代執行」の解説の一部です。
「第一次代執行」を含む「成田空港予定地の代執行」の記事については、「成田空港予定地の代執行」の概要を参照ください。
第一次代執行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 06:50 UTC 版)
「成田空港予定地の代執行」の記事における「第一次代執行」の解説
1969年3月25日:空港公団分室に押し寄せた反対同盟員が、公団が発送した代替地配分申込書を焼き捨てて抗議。 9月10日:今井栄文空港公団総裁が、友納武人千葉県知事に土地収用法に基づく事業認定について同意を求める。 9月13日:空港公団が新東京国際空港建設事業の事業認定を申請。 9月28日:三里塚第ニ公園で「労・農・学事業認定粉砕全国集会」開催。約3,600人が結集。 12月16日:坪川信三建設大臣が土地収用法に基づく事業認定を承認し、告示される(建設省告示第3865号)。 1970年1月15日:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」が開催され、約7,000人が集結する。 2月18日:「事業認定取消請求訴訟」(原告28人、千葉地裁。1973目7月25日に取り下げ)。 2月19日:土地収用法に基づく空港公団の第1次立入調査に対抗し、反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む(翌日まで)。「少年行動隊」に属する反対派世帯の生徒らも同盟休校と称して学校を休んで参加し、以降家族ぐるみの阻止闘争が実施される。現地での測量は簡易に済ませ、航空測量による略式調査に切り替えられた。 3月3日:空港公団が、千葉県収用委員会に対し第一次収用裁決を申請。 3月13日:反対同盟が「事業認定取消請求訴訟」を起す(原告1,611人、東京地裁)。 5月14日:「第二次強制測量阻止闘争」。滑走路用地など6箇所1.67 haに対し空港公団の第2次立入調査が実施される。 6月12日:千葉県収用委員会が第一次収用裁決申請に係る公開審理を開始。この日開かれた第一回公開審理を地権者ら約1,000人が傍聴。少年行動隊も「同盟休校」で闘争に参加した。反対同盟の顧問弁護士が異議を申し立てたところ発言を禁止され、怒った反対派が空港公団の事業内容説明者からマイクを奪うなどして会場は混乱、1時間で閉会した。 8月26日:「第一次申請分」六筆の土地に収用委員会の現地調査が行われる。反対同盟員約270人が阻止闘争を展開。53人逮捕。1人が手錠をされたまま逃走する。 9月1日:千葉県収用委員会が第二回公開審理。混乱により開会も宣言できずに終わる。委員らが学生や青年行動隊から暴行を受け、1人が肋骨を折る怪我。 9月2日:千葉県収用委員会が第三回公開審理。警察の警護下で開会を宣言するが反対同盟が審議に応じず、審理をせずに終わる。 9月13日:警察庁において、関東管区各警察本部長レベルが出席して第二次代執行の警備実施計画について会議が開かれ、千葉県警が出してきた計9000人を動員する計画に警察庁が難色を示し、3分の2の6400人に動員規模を削減される。 9月30日:この日から10月2日まで「第三次強制測量阻止闘争」(のちに空港反対派は「三日戦争」と名づけた)。反対同盟は、落とし穴、「白兵戦」、「黄金爆弾(糞尿)」などを駆使して徹底抗戦する。3日間の攻防で61人が逮捕される。測量で空港公団職員が竹槍による青年行動隊の襲撃を受けて重傷を負い、この日以降機動隊が最初から全面に出てくるようになる。 10月7日:空港公団、用地取得に「特別措置法を適用する」と発表。 10月22日:千葉県収用委員会が第四回公開審理。反対同盟は引き伸ばしを図って会場入りを遅らせたが、その間に空港公団が無人の席に向かって意見陳述を行う。午後4時頃に反対同盟が到着し審理が進んでいる事態に演壇に詰め寄ろうとしたが、閉会が宣言され委員らは退席した。 10月24日:千葉県収用委員会が第五回公開審理。反対同盟はボイコットし、空港公団による意見陳述のみで公開審理は結審扱いとなる。 11月4日:空港公団が1期工事について公共用地の取得に関する特別措置法に基づく特定公共事業の認定を建設大臣に申請。 12月26日:千葉県収用委員会が、第一次収用裁決申請分に対する収用裁決(権利取得の時期および明渡しの期限1971年1月31日)。 12月28日:11月4日の申請を受け、1期工事の特定公共事業認定が告示される。 1971年1月6日:反対同盟が代執行に備え強制収用対象地に「地下壕」(穴ぐら)を掘り始める。 1月22日:佐藤栄作首相が「建設中の新東京国際空港は、(昭和)四十六年度中に供用を開始するとともに、関西新国際空港についても、すみやかに着工するよう目下調査を進めております」と施政方針演説を行う。 1月23日:友納千葉県知事が初めて現地を訪れ戸村反対同盟代表と代執行問題について会談。反対同盟側の要求に応じて警備当局に一切の警察関係者を入れないよう申し入れたうえで御料牧場事務所に臨んだ友納知事は「(第一時代執行対象地は)農地でも宅地でもない。崖とか荒地のところで、しかもこんな土地を110人もの社会党・共産党の国会議員などが、工事を妨害するためだけに所有している。まったく農民の方々には関わり合いのないことである。妨害をしないでほしい」と呼びかけるが、論議は平行線のまま終わる。農民からは「なぜ、早く来なかった」との声が上がる。友納知事が代執行の実施の有無について明言しなかったため、友納知事からの再度の会談申し入れに対し、反対同盟は「空港建設を前提にしている以上、会談に応じる考えはない」として拒絶。 2月2日:空港公団の代執行請求に基づく県知事による戒告書が送付される。 2月15日:友納千葉県知事が行政代執行の3週間以内の実施を発表。 2月16日:友納千葉県知事が代執行対象地の関係者に代執行令書を送付。 2月20日:県教育委員会教育長が戸村反対同盟代表と面会して「同盟休校の形で学童を拘束せず、子どもたちを危険な場所に入れることだけはさけてほしい」と申し入れ。 2月22日:6件6筆の建設予定地(いずれも一坪共有地)に対して第一次代執行が開始される。午後1時からガードマンや県・空港公団職員らからなる約400人の代執行班が対象用地に向かうが、学生らに阻まれて約1時間半で引き揚げ。反対同盟子弟の半数にあたる少年行動隊142人は「同盟休校」で闘争に参加(反対同盟からの休校宣言は無し)。第5地点付近で情報収集をしていた私服巡査を学生らが竹槍を突きつけてつるし上げる。現地で取材中のNHK記者が空港公団分室近くで散弾を発見して警察に届け出、学生側は「官憲側の謀略」と主張。 2月23日:午前11時59分に執行官が「行政代執行法と土地収用法により代執行を行う」と宣言し作業が開始されるが、学生らから投石が行われて作業員2人が負傷し、4分で中断される。千葉県現地本部が「第1地点については、午後1時17分、代執行を完了した」と発表したが、実際には代執行打班がバリケード付近の立木を伐採して持ち帰っただけだった。 2月24日:第6地点に対して代執行が実施される。移動する代執行班の前に、少年行動隊の小中学生約50人が前列に出てくる。子供らは「公団帰れ」とシュプレヒコールをあげ、反対同盟は宣伝カーから「お前たちはこの少年たちを殺すつもりか」とマイクで叫ぶ。少年行動隊とのもみ合いで、代執行班は約100メートル後退させられる。更にその後ろには学生らのデモ隊が竹竿を突出して気勢を上げており、弱った代執行班は一旦引き上げ。午後2時過ぎに代執行班が再び現地に向かうが、少年行動隊約30人及び約70人の支援学生らに阻まれ、もみ合いとなる。この中で、ガードマンに押し返された少年行動隊約15人が深さ約1.5メートルの溝に落下して、負傷者が出る。この日の代執行で少年行動隊7人(うち2人入院)が負傷し、ガードマン3人が学生に殴られて軽傷を負う。事態に激怒した野次馬を含む群衆が「代執行開始宣言」の横断幕を引きちぎり、公団分室に投石を行った。混乱の最中、社会党議員団による空港公団への面会に社会党の木原実衆議院議員と三ッ松県会議員が遅参し、背後に黒ヘルメットをかぶった学生集団がいたために公団分室のガードマンらが反対派と誤認してこれを排除。両議員は顔などを負傷する。 2月25日:この日は過激派が角材・竹槍・石塊・空瓶を大量に用意していることなどを理由に機動隊が早朝から前面に出て、積極的に反対派を実力排除する。正午過ぎに「地下壕」が落盤し、農民1人が負傷。この日の逮捕者141人。警察発表による負傷者は、機動隊員27人・ガードマン1人・報道関係者1人。反対同盟発表による反対派の負傷者は戸村代表を含む153人で、うち7人が重傷。 2月26日:午前3時ごろ、空港公団のモータープールに角材などで武装した学生風の男5人が乱入し、ブルドーザーに火炎瓶を投げつける。男らはさらにガードマン4人に襲い掛かり1人を負傷させ、ガードマンの車両のフロントガラスを破りタンクローリーからガソリンを抜いて逃亡。友納千葉県知事が、27日から3月1日までの代執行の停止を表明する。少年行動隊の生徒らが通う小中学校の校長らが砦を訪れて説得を試みるが、生徒らは闘争現場から離れることを拒絶。北原事務局長に面会を打ち切られ退去した校長らは、空港公団理事と県警警務部長に生徒の安全確保を申し入れる。少年行動隊が公団分室に向かい、そこにいた県教育長や公団理事と口論するが話は平行線のままで、少年たちは口々に公団を罵りながら退出。なお、少年行動隊が公団分室に訪れると職員が茶を出すなど、牧歌的なやり取りもあった。 2月27日 - 3月1日:代執行が一時中止される。少年行動隊も登校を再開する。その間に反対派と空港公団の双方で砦や金網の補修・補強が行われる。 2月28日:千葉地方裁判所が、土地から相当遠距離に居住する者や乳幼児など、経済的あるいは作業的見地からみて契約締結の必然性に乏しい多数の借主と結ばれた一坪共有地の賃貸契約は社会通念上ありえず、収用を妨害する目的でなされた名目的なものにすぎないことは明らかであり、訴えの利益が認められないなどとして、反対同盟の代執行停止処分申し立てを却下。 3月2日:代執行が再開され、全地点に執行宣言。機動隊が2,300人に増強される。これに対し反対同盟と新左翼党派が対峙。事前に反対同盟が行っていた呼びかけに応じて「野次馬」約3,000人が現地に"ショー"の見物に現れ、約1800台のマイカーやバスで周辺の空き地は埋め尽くされ、野次馬相手のカー・レストラン、牛乳屋、コーラ屋が盛況という有様であった。中に紛れ込んだ支援学生らのアジテーションを受けた野次馬は、妨害をやめるよう求める機動隊の呼びかけを無視して、投石を行ったり阻止線を作るなどして、終始反対同盟側を支援した(逆に私服警官と誤認されて学生に追い掛け回される者もいた)。更にテレビ局が中継車を反対同盟の砦に横付けしたため、機動隊と空港公団はほぼ手を出せぬまま撤収する。投石した学生を逮捕しようとした警視庁特務係の私服警官1人が逆に学生集団に拉致されて暴行される。警官は反対同盟の救護班に助け出され、反対同盟の野戦病院で手当てを受けてから成田赤十字病院へ搬送される。その後、救助に駆け付けた機動隊が野戦病院を包囲するが、既に当人がいないことが判明して引き揚げる。同日、故小川明治副委員長の四十九日の慰霊祭が砦内でとり行われる。この日の逮捕者は高校生を含む13人。反対派の負傷者20人、成田日赤病院への緊急搬送3人。警察発表では警官ら46人が負傷。 3月3日:機動隊が3,000人に増強され、現場周辺の道路で「野次馬」を閉め出す検問を開始。土砂降りの雨の中の衝突となる。逮捕者19人。反対同盟発表の反対派の負傷者101人。警察官91人・ガードマン10人・公団職員4人・報道関係者5人が負傷。双方にかなりの負傷者が出たことや雨によって地下壕の地盤が弱くなっていることを踏まえ、友納千葉県知事が翌日の代執行中止を発表。この日から反対同盟から「壊し屋」と呼ばれた屈強な工事作業員による撤去作業が行われる。 3月4日:代執行が一時中止。 3月5日:機動隊がさらに3,500人に増強される。重機を投入した代執行側に反対派は火炎瓶で対抗し、この日から翌日にかけて最大の攻防戦が行われる。千葉県警検挙隊員3人が拉致されて暴行される。逮捕者65人。反対派の負傷者259人(反対同盟発表)。代執行側の負傷者は121人(県発表)。ガードマンが投石や奪った竹槍で殴り返すなどの過剰警備を行い、機動隊に諫められる。ガードマンの中には元地権者もいたが、これらの「暴走」を行ったのは主に東京から来た者たちであったという。 3月6日:「地下壕」を除き、機動隊は砦などの第3・4・5地点の反対派拠点を高圧放水などで制圧。「故郷」を歌う支援学生がしがみついている第5地点の松の木が、チェーンソーで切り倒される。千葉県は「地下壕」は対象外であるとして、「(第一次)代執行終了」を宣言。この日の逮捕者は186人。13日間の代執行で反対派の竹槍・投石・火炎瓶等による攻撃で警官・職員・作業員ら1,171人が負傷し、反対派の逮捕者は487人にのぼった。以降、反対派のゲリラ攻撃が活発化する。 3月7日:反対同盟が「緊急抗議集会」を約1,500人で開催。反対同盟は負傷者続出を理由として県知事・空港公団総裁・千葉県警本部長らの告発を決定する。十日間の第一次代執行期間で逮捕者461人、負傷者841人うち重傷43人。橋本登美三郎運輸大臣が「これで反対派の農民も、いくら抵抗してもだめだとわかったろう(中略)二、三日もすれば、農民も話し合いに乗ってくるだろう」と発言。 3月8日:空港公団と機動隊が、現場判断でブルドーザーによる「地下壕」の一部埋め立てを実施。 3月9日:反対同盟及び支援者は8日の撤去作業に法的根拠がないとして強く抗議。現場に駆けつけた山本力蔵空港公団副総裁と反対同盟の間で交渉が持たれ、撤去作業の中断・休戦・反対同盟による地下壕で立て籠もるメンバーの説得を約した協定書が結ばれる。 3月24日:空港公団が、反対同盟が協定に反して「地下壕」の強化を行い、且つ再三の警告を無視したことを理由に、協定の破棄を戸村反対同盟代表に通知。 3月25日:機動隊4,000人が動員され、空港公団はブルドーザーや大型ユンボを用いて8日に撤去しきれなかった頑丈な「地下壕」を撤去。
※この「第一次代執行」の解説は、「成田空港予定地の代執行」の解説の一部です。
「第一次代執行」を含む「成田空港予定地の代執行」の記事については、「成田空港予定地の代執行」の概要を参照ください。
- 第一次代執行のページへのリンク