第一次伊庭氏の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 02:33 UTC 版)
文亀2年(1502年)10月、六角高頼が伊庭貞隆を咎めたところ、貞隆とその一族は出奔、11月には再起を図っていた山内就綱の協力を得て挙兵をすると、12月26日には馬淵城・永原城を攻め落とした。高頼は観音寺城を出て蒲生貞秀を頼って音羽城に落ち延びた。 伊庭貞隆は音羽城を攻め、翌文亀3年(1503年)3月には細川政元の内衆である赤沢朝経も伊庭氏の援軍に駆けつけた。しかし、6月には赤澤朝経が京都に帰還し、朝経の主君である細川政元の仲介で高頼と貞隆は和睦して、貞隆の息子とみられる六郎が高頼と対面した。六郎と山内就綱は間もなく京都に脱出して細川政元を頼ったが、貞隆は永正元年(1504年)には守護代としての職務を再開している。また、永正9年(1511年)には将軍に復帰していた足利義稙(かつての義材)が後奈良天皇の即位式のための段銭徴収を守護代である伊庭貞隆に命じている。
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