第一次使節の来日と広島談判
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「下関条約」の記事における「第一次使節の来日と広島談判」の解説
1895年1月、清国は正式の使節を日本に派遣することを決定した。使節に任じられたのは、戸部侍郎であった張蔭桓と湖南巡撫の職にあった邵友濂であった。張蔭桓はアメリカ、ペルー、スペインの駐在公使を務めた経験があり、邵友濂は台湾巡撫を3年務めた実績があった。使節派遣の取り次ぎを行うのはアメリカ合衆国で、北京のデンビー駐清公使と東京のダン駐日公使が連絡を取り合うことで、その任を果たした。 清国側は会見地として九州の長崎を希望し、日本が全権委員を任命した日に休戦開始の日程を定めることを提案したが、日本側はいずれも拒否し、会見地を広島とした。清国使節の張蔭桓と邵友濂は日本側の意向を受け容れ、1月26日、上海を出発し、28日には長崎港に入って、1月31日に広島に到着した。会見場所としては広島県庁があてられた。日本政府は、同じ31日に伊藤首相と陸奥外相を全権弁理大臣に任命した。日本側全権が首相と外相であるのに対し、清国側全権は財務次官と地方知事にすぎず、この格の違いは清国使節の面目を失わせるに充分であった。 翌2月1日の会談において、清国使節の持参した書簡を両名は「国書」と「勅諭」であると称したのに対し、陸奥全権はそれは一種の信任状ないし単なる紹介状にすぎず、講和を談判する全権委任状ではありえないと述べた。また、日本側は講和のための会談・記名・調印の全権を天皇より委任されているのに対し、清国使節はどうなのかと問い詰めた。2月2日、それに対して清国使節は回答したが、交渉内容を本国に相聞したうえで勅旨を得てからはじめて調印という段取りを踏まなければならないなど、講和全権としての権限が与えられていないことが判明し、結局、使節の地位についても不十分であって、同日、陸奥らは講和交渉打ち切りを宣言した。なお、その日、日本軍は北洋艦隊の根拠地威海衛を占領している。 広島を退去するほかなくなった清国使節団であったが、伊藤博文は顔を見知っていた使節団随員の伍廷芳を呼び止め、「交渉継続を拒否したのは、決して日本が兵火を好むからではなく、正当な資格を有する全権使臣が来るならば、交渉再開を躊躇する理由はない」旨を述べた。伍は、アメリカ留学の経験があったため、伊藤首相と直接英語で話せたのである。伍廷芳は思い切って「使臣の官位名望の低いことが不都合なのか」と伊藤に質問したところ、伊藤は「そうではない。全権委任状を帯有する者であれば誰でもよい」と答えはしたものの、一方では「恭親王もしくは李中堂(李鴻章)のごとき人」という個人名を挙げ、「官位名望が低いよりは高い方がよい。というのは、交渉結果は単に紙上の空文ではなく、必ずこれを実行しうる有力者を必要とするからである」と語った。2月8日、陸奥宗光はダン駐日アメリカ公使を通じて、日本は、正当な全権委任状を帯有した「名爵資望ある全権委員」の派遣を望んでいることを清国側に伝達させた。 清国第一次使節団は2月12日、長崎より帰国した。同日、威海衛の戦いが日本陸海軍勝利のうちに終結し、北洋艦隊は降伏して水師提督の丁汝昌は自決した。軍艦「鎮遠」は日本海軍の戦利品となり、これには多くの日本国民が歓喜の声をあげた。ただし、台湾占領作戦の方は、予定していた第一軍が遼河平原における戦闘で苦戦し、威海衛の攻略よりもはるかに取りかかりが遅れたのであった。
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