第一次入居と鉄道開通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 09:08 UTC 版)
「多摩ニュータウン」の記事における「第一次入居と鉄道開通」の解説
1971年、多摩ニュータウンの最初の入居が永山駅南側の諏訪・永山地区で行われた。この地区はもともと別の開発計画として存在し、早期から買収が進んでいた日本住宅公団の「聖蹟桜ヶ丘地区」であったが、多摩ニュータウンに組み入れられた。こうして、この地区を中心にオイルショックまでの3年間に約8千5百戸あまりの住宅が供給され、1974年に多摩ニュータウンの人口は3万人に達した。このころに供給された住宅は、他の多くの地区とは違い公的賃貸住宅を中心としているほか、住宅不足の解消を目的とした画一的な仕様の住宅であり、間取りや設備などの面で現代の住宅ニーズから乖離した物件が多いためその後の高齢化の温床となることになる。 なお、この時点では諏訪・永山地区まで鉄道が開通しておらず、住民は2km以上先の京王線聖蹟桜ヶ丘駅等まで路線バスやタクシーでの移動を強いられた。乗り入れ認可を受けていた当時の京王帝都電鉄・小田急電鉄は、新線建設の費用のほか多摩ニュータウン方面からの輸送量増加に伴う在来区間の複々線化の費用が掛かるとなると、とても採算が取れないとしていて、国や都に用地の無償提供などを求めて建設を中断していたためであった。最終的には、日本鉄道建設公団が私鉄事業者の鉄道施設を建設し、完成後に25年の割賦で事業者に譲渡するという方策がとられることとなり、小田急線が1974年6月に小田急永山駅まで、続いて京王線が同年10月に京王多摩センター駅まで開通し、小田急も翌1975年に小田急多摩センター駅まで開通した。
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