第一次共和政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)
詳細は「ギリシャ第一共和政」を参照 1821年3月6日、アレクサンドロス・イプシランチ率いるフィリキ・エテリアの部隊はプルート川を渡り、ここにギリシャ独立のための戦いが始まった 。イプシランチの部隊は6月に全滅するが、ギリシャ各地では独立の気運が高まり、各地で蜂起が発生、特にペロポネソス半島の蜂起軍はギリシャ独立戦争の主力部隊と化すこととなる。 当初、ヨーロッパ列強国はこれに冷淡な態度をとっており、ギリシャ全体が独立を望んでいたわけではなく、ギリシャ国内も三つの政府がそれぞれ樹立された。この状況を打開するために1822年1月には第1回国民会議も開かれ、臨時政府が発足した。しかし、これも一枚岩ではなく、内戦が2度にわたって発生(1823年11月から1824年、1824年11月から1824年12月)、臨時政府はイギリスへ支援を求めた。 その後、オスマン帝国の反撃により、ギリシャ軍は危機を迎えたが、ここに至りヨーロッパ列強(イギリス、フランス、ロシア)が介入を開始、風向きは変わり始めた。そこでギリシャ国内では第3回国民議会が開催され、憲法を制定、初代大統領にロシア官僚であるイオアニス・カポディストリアス伯爵が選出された。それでもギリシャの独立をオスマン帝国は認めなかったが、1827年10月20日のナヴァリノの海戦に敗北したことにより、態度を軟化、ギリシャの独立がここに決定された。 しかし、その最中、大統領カポデイストリアスは恨みを買ったギリシャ独立戦争時の指導者によって暗殺され、さらに列強三国はギリシャを王政にすることを決定した。1833年2月、ギリシャ王に選ばれたバイエルン王国のオソン1世は仮首都、ナフプリオンへ到着、ここにギリシャ王国が成立した。
※この「第一次共和政」の解説は、「ギリシャの歴史」の解説の一部です。
「第一次共和政」を含む「ギリシャの歴史」の記事については、「ギリシャの歴史」の概要を参照ください。
- 第一次共和政のページへのリンク