第一次共産党[編集]
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)
詳細は「第一次共産党 (日本)」を参照 1922年7月15日、堺利彦、山川均、近藤栄蔵ら8人が、極秘のうちに渋谷の高瀬清の間借り部屋に集まって日本共産党を設立(9月創立説もある)した。一般には「第一次日本共産党」と称されている。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながした。 11月にはコミンテルンに加盟し、「コミンテルン日本支部 日本共産党」となった。この時、コミンテルンから「22年テーゼ(日本共産党綱領草案)」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。 「コミンテルン#日本共産党とコミンテルンテーゼ」も参照 「綱領草案」は、政治面で、君主制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結、出版、集会、ストライキの自由、当時の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止などを求めていた。経済面では、8時間労働制の実施、失業保険をふくむ社会保障の充実、最低賃金制の実施、大土地所有の没収と小作地の耕作農民への引き渡し、累進所得税などによる税制の民主化を求めた。さらに、外国にたいするあらゆる干渉の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの日本軍の完全撤退を求めた。 日本共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。ほかの資本主義国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。 日本共産党は一斉検挙前に中心人物が中国へ亡命したり、主要幹部が起訴されるなどにより、運動が困難となった。堺利彦らは解党を唱え、結果1924年に共産党はいったん解散した。堺や山川らは共産主義運動から離れ、労農派政党の結成を目指した。赤松など国家社会主義等に転向する者もいた。 その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が、制定された。
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