日本共産党とコミンテルンテーゼ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:11 UTC 版)
「コミンテルン」の記事における「日本共産党とコミンテルンテーゼ」の解説
1922年に日本共産党が承認された(日本共産党はコミンテルン日本支部となる)。 22年テーゼ(草案) 1922年にコミンテルンのブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」。日本共産党では君主制廃止をめぐる内部意見の対立から正式な綱領(テーゼ)とはしなかったが、理論的に承認した(1923年)。 27年テーゼ 関東大震災で打撃を受けた日本共産党は1926年に再建し、1927年コミンテルンで採択された「日本問題に関する決議」が活動方針になった。 31年政治テーゼ草案 コミンテルンのゲオルギー・サファロフ(元ジノヴィエフ派、後に粛清)により執筆され、当面する日本革命を「ブルジョア民主主義的任務を広汎に抱擁するプロレタリア革命」とした。 32年テーゼ コミンテルンと片山潜、野坂参三、山本懸蔵らの討議を経て、1932年に「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」が採択され、日本共産党の新たな活動方針になった。 1936年 1935年のコミンテルン第7回大会で採択された人民戦線に基づき、野坂参三・山本懸蔵が「日本の共産主義者への手紙」を執筆。だが日本共産党の党組織はすでに崩壊していたため影響力は無に等しかった。
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