日本共産党における評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 09:27 UTC 版)
宮本顕治が党首となり、1966年に中国共産党と袂を分かって「自主独立の党」を標榜するようになった後の日本共産党においては「1950年から1955年にかけて徳田球一と野坂参三の分派がソ連や中国の言いなりとなって武装闘争路線を持ち込もうとしたが、宮本顕治はこれに反対した」「50年問題でソ連など干渉者の指揮のもとに誤った道に踏み込んだのは党中央の一部の幹部、徳田・野坂分派に属するごく少数の者にとどまる」「50年問題を経て党は自主独立の立場を確立した」という立場をとっているため、徳田球一は否定的に扱われている。 またそれ以前、依然日本共産党が中国共産党やソ連共産党の影響下にあった時代の1955年(昭和30年)の第6回全国協議会(六全協)でも徳田球一は厳しく批判されている。六全協は徳田が個人的な感情で伊藤律などの側近ばかりを偏重し、同志たちを広く公平に登用しなかったとして「家父長的な個人中心指導の誤り」を犯したと批判した。
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