日本共産党と部落解放同盟
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「狭山事件」の記事における「日本共産党と部落解放同盟」の解説
事件発生当時、石川の兄から相談を受けた遠藤欣一(狭山市議、日本共産党)は日本共産党系列の自由法曹団の弁護士(東京合同法律事務所の中田直人と橋本紀徳(としのり)。のち同事務所の石田享(すすむ)が参加)を紹介。中田直人が主任弁護人に就任。日本国民救援会など、日本共産党の影響下にある団体が自費で支援していた。1963年に第1回部落問題研究者集会で中西義雄が狭山事件に触れたこともあるが、一審当時の石川は罪を自供していたため、部落解放同盟中央本部からは支援を受けられなかった(ただし中央本部とは別個に埼玉県連や群馬県連などが石川の家族を励ますとともに、埼玉県警捜査本部に抗議を申し立てたことはある)。1964年9月から控訴審が始まり、石川が無罪主張に転じた時、中田直人らは部落解放同盟中央本部を訪れ、支援を要請したが顧みられなかった。 1965年5月29日、東京高裁第2回現場検証に野本武一や清水喜久一ら埼玉や東京の部落解放同盟代表が参加。1965年10月5日、部落解放同盟第20回全国大会で、石川の無実を前提とする公正裁判要求の決議が出る。 1968年10月6日、部落解放同盟は「狭山事件第1回現地調査」を行なったことを公表。1969年3月3日と3月4日、部落解放同盟は第24回全国大会で狭山事件支援の特別決議を採択し、「差別裁判」を盛んに主張するようになった。1969年7月10日、部落解放同盟が中央本部に石川青年救援対策本部を設置し、パンフレット「狭山事件の真相」を発行。これを受け、1969年11月、被差別部落出身の学生運動家の沢山保太郎らが「狭山差別裁判糾弾」を掲げ「浦和地裁占拠闘争」を開始。1970年3月13日、部落解放同盟第25回全国大会で「狭山差別裁判糾弾」の方針を決定。1970年5月18日、部落解放同盟が部落解放国民大行動に取り組み、狭山差別裁判反対を訴えて、6月17日まで日本全国を行進。1972年1月26日、部落解放同盟と協力関係にある日本社会党が第35回大会で狭山闘争支援を決議。 このように、石川支援の軸足が日本共産党から日本社会党へ移るにつれ、一審における石川の弁護人の中田直人らは部落解放同盟から「差別弁護士」「日共系弁護士」という攻撃を受けるようになり、1973年には石川自身からも「日共系弁護士」と公然と非難され、1974年4月には、中核派機関誌『武装』誌上で石川から「三月公判に於ける弁護士の不誠意・斗魂のなさといいましょうか、勉強不足には耳をふさぎ目をそむけたくなる」と非難を受け、1974年10月の二審終了後、1975年2月には石川から解任され、 石川君じしんが、反共・反民主主義的破壊活動をこととする「部落解放同盟」朝田派の立場にくみし、私たちを一方的に非難することを少しも恥としなくなった以上、石川君の弁護人となることによって、その誤った立場をともにすることは、もはや私たちにはできません。 と辞任声明を発表するに至る。なお、中田らの辞任に先立つ1970年には既に朝田善之助(部落解放同盟委員長=当時)の依頼で山上益朗が狭山弁護団に加わっていた。石川が中田直人らに不信感を抱くに至った事情について、石川の兄は やっぱりね、共産党の弁護士の先生じゃ、ちょっと無理だったのね。(略)弟はこんなていどの感覚だから、そういう風に一雄に話してみてください、といっても弁護士は相変わらず、自分たちのむずかしい言葉で、彼らの常識でいっちゃうんですよ。(略)一雄も世間を知らなさすぎたけど、先生たちは一雄を一般のひとと同じように扱っちゃうんですね。 と語っている。 なお、石川を積極的に支援してきた部落解放同盟では、石川の実兄を埼玉県連合会の狭山支部長に迎えている。
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