日本共産党と新左翼セクト間の対立
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「狭山事件」の記事における「日本共産党と新左翼セクト間の対立」の解説
新左翼セクトの多くは、狭山闘争を沖縄闘争や三里塚闘争と並ぶ重要な闘争と位置づけた。とりわけ解放同盟は狭山闘争を重視し、行進や署名運動などを盛んにおこなった。そして、いわゆる「解放教育」でも、狭山事件を差別裁判であるとする内容が盛り込むようになっていった。解放子ども会や一部の学校などでは「差別裁判うち砕こう」の歌 の授業や、「狭山同盟休校」(授業ボイコット)などが盛んに行なわれた。こういった形態での「狭山闘争」を、日本共産党などは「狭山妄動」として激しく非難した。全解連の機関紙「解放の道」によると、1970年7月、朝田善之助は水上温泉における部落解放全国青年集会(全青)で「証拠調べなぞいらん、差別性を明らかにしてやればよい」 と放言したこともあったという。 その後、日本共産党は『赤旗』1975年1月11日付に論文「「一般刑事事件」民主的運動」を掲載し、 「「解同」朝田派は、この事件(狭山事件)を頭から「差別裁判」と規定したうえ、これを反共キャンペーンの材料とし、わが党にたいして、共産党は"差別裁判でないと主張、えん罪事件にわい小化した"などのひぼうをおこなっている。これは、「差別裁判」というかれらの独断的な規定をうけ入れないものは、「差別者」だとする立場からの問答無用の議論である。また、わが党中央は、狭山事件について、無実の「えん罪」であると規定したことはなく、この点からいっても、まったく見当ちがいもはなはだしい中傷である」 と発言。後に『赤旗』1977年12月2日号と3日号で、日本共産党中央部落対策委員会の田井中一郎名義で見解を発表し、「解放同盟が支援活動を混乱させてしまった」と強く非難した。さらに、田井中は 「かれら(部落解放同盟)の論法でいくなら、部落住民にかんする事件は、真犯人であろうとなかろうと、すべてが「部落差別」を基礎とする「差別裁判」ということになるのである。しかも、かれらは「差別裁判」だと決めつけることによって「石川青年の即時釈放」を要求し、かれらに同調しないものや、証拠にもとづく公正な裁判を要求してたたかっていた人たちまで「差別裁判」の加担者だと攻撃した。これが、部落住民なら、どんな犯罪をおかしても裁判をうけたり、罰せられたりすべきではないとする、きわめて反社会的な主張であることはあきらかである。 もともと、ある裁判の基本性格を「差別裁判」と断定するには捜査、起訴、審理、判決という訴訟の過程に、ことさら差別観念をあおったり、未解放部落住民であることを最大の理由として処罰するなどの明確な事実がなければならないが、「狭山裁判」をそうしたものと断定する根拠はないのである。 また「解同」はこの事件自体があたかも「部落解放運動」への弾圧事件だったかのようにみせかけている。だが「狭山事件」は、松川事件のような政治的背景のある謀略事件と全く性格がちがい、石川被告は、事件当時、部落解放運動とはなんのかかわりももっておらず、警察や検察当局がこの事件から部落解放運動の組織や活動の弾圧にすすむということもなかったのである。」 と主張し、狭山裁判の背景に差別があったことを疑った。また、「解同」が中核派、社青同解放派などのトロツキストと野合していると批判した。さらに、石川自身も解放同盟に与し、共産党を非難したとして、共産党系団体は支援活動から離れ、一審以来の弁護士も弁護団から離脱した。 解放同盟らによる、狭山事件が「差別裁判」であるとする主張を受け、新左翼が支援に乗り出し、中核派などが解放同盟との結託を盛んに強めてゆく。このため、狭山闘争の集会では、「日共差別者糾弾」「反革命カクマル殲滅」といったアジテーションも盛んに行なわれてゆくようになった。このような流れの中で、社青同解放派による東京高裁長官室乱入事件や東京高裁判事襲撃事件が起きている。「寺尾と刺し違える覚悟」で法廷闘争に臨んだにもかかわらず有罪判決を宣告された石川は「そんなことは聞きたくない!」と激怒。1976年9月17日、反帝学評が「革命的鉄槌」と称して寺尾判事を襲撃すると、石川は「だれが私の無念を払って下さったんだろうかと思いつつ、感謝感激でありました」との感謝状を反帝学評に送り、テロ行為を賛美した。部落解放同盟はこの襲撃事件に対して全く無関係である旨を表明したが、「直接の関係がなくても、かれらと『連合』してきたのは否定できない」と指摘された。石川はこのほかにも獄中から中核派などの狭山集会にメッセージを寄せており、「『解同』朝田派とトロツキスト暴力集団を核にして、反社会的な方向へ転回していっている」と批判された。 1974年9月13日、部落解放同盟は東京都知事(当時)の美濃部亮吉たちと会い、その席上で上杉佐一郎は「新左翼の学生については、好んでむかえているわけではないが、すべてに力を結集することが大切だから(狭山闘争に)参加させている」と発言した。しかしその一方で部落解放同盟は、狭山闘争における中核派や社青同解放派との結託を、1974年7月の中央委員会で「数千の戦闘的労働者、学生、市民との共同闘争の飛躍的前進」と讃えていた。 このような新左翼と部落解放同盟との結託は、部落解放同盟と日本共産党との対立を激化させる原因のひとつとなった。また、新左翼陣営の内部でも中核派・ブント系・社青同解放派・民学同の間で主導権争いがおこなわれていた。ただし革マルは石川を「真犯人に酷似している石川」 と呼び、石川冤罪説に対して距離をおく立場をとった。 一方、日本共産党と連帯関係にある全国部落解放運動連合会(全解連)は、狭山裁判は差別裁判ではないとの立場をとった。同時に、いわゆる「解放教育」について、部落解放同盟などが推し進めている同盟休校は教育権の蹂躙であり、また保育園児にまで「石川兄ちゃんかえせ」「日共粉砕」などと叫ばせているとして、解放同盟を激しく非難した。部落解放同盟による「狭山同盟休校」は1976年から始まり、同年5月22日には日本全国19都府県連で1500校10万人の児童生徒が休校に参加した。この「狭山同盟休校」は1984年まで続いた後、「狭山集団登校」「狭山ゼッケン登校」として存続した。また、中核派系の部落解放同盟全国連合会(全国連)でも小中学生の「狭山集団登校」をおこなっている。 大阪市内の「同和教育推進」小学校では、狭山事件の教材化が行われ、小学1年生の書き取り練習に解放歌「狭山差別裁判うちくだこう」の歌詞を書き写させる授業がなされた。また、学習の到達目標として、小学校1年生には「石川氏の無実の理由を2つ以上いえる」、2年生には「石川氏の無実の理由を3つ以上いえる」などの基準が掲げられた。このような取り組みは 「現在係争中の事件をこうした形で教材化することは第一に、教育基本法第8条第2項の『法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。』に違反することである。さらに第二に、公正な裁判を要求し、無実を実証すれば勝利するのであり、『さべつさいばんうちくだこう』などという方針では、石川氏は無罪にならない。『さべつさいばんうちくだこう』は裁判そのものを否定し、今日の力関係のなかではむしろ厳刑を客観的には石川氏に強いる路線であり、反戦トロツキストがやっているような、笑止な小児病的スローガンにすぎない」 と批判を受けた。 全解連の中西義雄は1976年発表の論文「部落解放の到達点と展望」 で以下の見解を述べている。「狭山事件の犯人を石川被告ときめつけるには、法律には素人であるわたしたちにさえ、断定的な証拠をつかむことはできない。かといって、石川被告が完全に無実であるとする明白なアリバイは、一審いらい、石川被告の無実をあきらかにするために献身してきた弁護士によっても、つきとめることができなかったからだ。わたしたちは、今日でも、最高裁が事件の真実を公正な裁判をつうじてあきらかにしなければならない。たとえ、あきらかにならなかったとしても、犯人であるか、どうか、疑わしいばあいは罰するべきでない、という立場にたっている」 中西義雄によると、全解連が狭山裁判から手を引いた理由は以下の3つであるという。 石川がわれわれと同じ被差別部落民であるからといって、石川を無実と断定することはできず、無責任に冤罪論を展開するわけにはいかないこと。 狭山裁判は差別裁判でも権力犯罪でもなく一般刑事裁判であり、したがって、被害者の遺族のことも考えず「権力」対「犠牲者」といった図式で捉えるのは軽率すぎること。 石川やその家族が部落解放同盟や新左翼のテロリストに接近し、その妄動に加担していること。 全解連の後身である全国人権連は、「献身的な弁護士らが「石川は犯人ではない」と主張しましたが、石川本人が「自白」を維持したことから一審は敗訴。弁護士解任は、「解同」などが狭山事件を「差別裁判」と規定し「日共系排除」という反共主義をまるだしに大衆的裁判闘争に障がいを持ち込んだことにあります。(中略)74年には石川自身も、反共・部落排外主義の「解同」の立場にくみし、一審以来献身的に尽力してきた中田直人主任弁護人ら7名を一方的に非難・誹謗するに至ったため、75年2月、中田弁護人らはこの裁判闘争から手をひかざるをえなくなったものです。」との見解を示し、石川が当初は起訴事実を認めていたこと、および石川が「反共の「解同」に与した」ことを非難している。また、人権連の事務局長で茨城県人権連書記長の新井直樹は日本国民救援会の見解に立ち、ブログの中で狭山事件を「えん罪事件」と呼んでいるが、人権連としては狭山事件について見解をまとめたことはない。 1978年には、奈良県生駒郡の平群町立平群中学校で、「狭山裁判再審闘争」に生徒たちを動員しようとする部落解放同盟の要求をPTA会長と学校側が拒否。これを部落解放同盟が「差別事件」として生徒を「同盟休校」させ、同校の同和教育推進教員を解任させる事態に発展した(平群中学校事件)。
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