日本共産党と新左翼セクト間の対立とは? わかりやすく解説

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日本共産党と新左翼セクト間の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:23 UTC 版)

狭山事件」の記事における「日本共産党と新左翼セクト間の対立」の解説

新左翼セクト多くは、狭山闘争沖縄闘争三里塚闘争と並ぶ重要な闘争位置づけた。とりわけ解放同盟狭山闘争重視し行進署名運動などを盛んにおこなった。そして、いわゆる解放教育でも、狭山事件差別裁判であるとする内容盛り込むようになっていった。解放子ども会や一部の学校などでは「差別裁判うち砕こう」の歌 の授業や、「狭山同盟休校」(授業ボイコット)などが盛んに行なわれた。こういった形態での「狭山闘争」を、日本共産党などは「狭山妄動」として激しく非難した全解連機関紙解放の道」によると、1970年7月朝田善之助水上温泉における部落解放全国青年集会(全青)で「証拠調べなぞいらん、差別性明らかにしてやればよい」 と放言したこともあったという。 その後日本共産党は『赤旗1975年1月11日付に論文「「一般刑事事件民主的運動」を掲載し、 「「解同朝田派は、この事件狭山事件)を頭から差別裁判」と規定したうえ、これを反共キャンペーン材料とし、わが党にたいして、共産党は"差別裁判でないと主張えん罪事件にわい小化した"などのひぼうをおこなっている。これは、「差別裁判というかれらの独断的な規定をうけ入れないものは、「差別者」だとする立場からの問答無用議論である。また、わが党中央は、狭山事件について、無実の「えん罪」であると規定したことはなく、この点からいっても、まったく見当ちがいもはなはだし中傷である」 と発言。後に『赤旗1977年12月2日号と3日号で、日本共産党中央部対策委員会田井中一郎名義見解発表し、「解放同盟支援活動混乱させてしまった」と強く非難した。さらに、田井中は 「かれら(部落解放同盟)の論法でいくなら、部落住民にかんする事件は、真犯人であろうとなかろうと、すべてが「部落差別」を基礎とする「差別裁判ということになるのである。しかも、かれらは「差別裁判」だと決めつけることによって「石川青年即時釈放」を要求し、かれらに同調しないものや、証拠にもとづく公正な裁判要求してたかっていた人たちまで「差別裁判」の加担者だと攻撃した。これが、部落住民なら、どんな犯罪おかして裁判をうけたり、罰せられたりすべきではないとするきわめて反社会的な主張であることはあきらかである。 もともと、ある裁判基本性格を「差別裁判」と断定するには捜査起訴審理判決という訴訟過程に、ことさら差別観念あおったり、未解放部落住民であることを最大理由として処罰するなどの明確な事実なければならないが、「狭山裁判」をそうしたものと断定する根拠はないのである。 また「解同」はこの事件自体あたかも部落解放運動」への弾圧事件だったかのようにみせかけている。だが「狭山事件」は、松川事件のような政治的背景のある謀略事件と全く性格がちがい、石川被告は、事件当時部落解放運動とはなんのかかわりももっておらず、警察検察当局がこの事件から部落解放運動組織活動弾圧にすすむということもなかったのである。」 と主張し狭山裁判背景差別があったことを疑ったまた、解同」が中核派社青同解放派などのトロツキスト野合していると批判した。さらに、石川自身解放同盟与し共産党非難したとして、共産党団体支援活動から離れ一審以来弁護士弁護団から離脱した解放同盟らによる、狭山事件が「差別裁判」であるとする主張を受け、新左翼支援乗り出し中核派などが解放同盟との結託盛んに強めてゆく。このため狭山闘争集会では、「日共差別糾弾」「反革命カクマル殲滅」といったアジテーション盛んに行なわれてゆくようになったこのような流れの中で、社青同解放派による東京高裁長官室乱入事件東京高裁判事襲撃事件起きている。「寺尾刺し違える覚悟」で法廷闘争臨んだにもかかわらず有罪判決宣告され石川は「そんなことは聞きたくない!」と激怒1976年9月17日反帝学評が「革命的鉄槌」と称して寺尾判事襲撃すると、石川は「だれが私の無念払って下さっただろうか思いつつ感謝感激ありました」との感謝状反帝学評送りテロ行為賛美した部落解放同盟はこの襲撃事件に対して全く無関係である旨を表明したが、「直接の関係がなくても、かれらと『連合』してきたのは否定できない」と指摘された。石川はこのほかにも獄中から中核派などの狭山集会メッセージ寄せており、「『解同朝田派トロツキスト暴力集団にして、反社会的な方向転回していっている」と批判された。 1974年9月13日部落解放同盟東京都知事当時)の美濃部亮吉たちと会い、その席上上杉佐一郎は「新左翼学生については、好んでむかえているわけではないが、すべてに力を結集することが大切だから(狭山闘争に)参加させている」と発言した。しかしその一方で部落解放同盟は、狭山闘争における中核派社青同解放派との結託を、1974年7月中央委員会で「数千戦闘的労働者学生市民との共同闘争飛躍的前進」と讃えていた。 このような新左翼部落解放同盟との結託は、部落解放同盟日本共産党との対立激化させる原因のひとつとなったまた、新左翼陣営内部でも中核派ブント系・社青同解放派・民学同の間で主導権争いおこなわれていた。ただし革マル石川を「真犯人酷似している石川」 と呼び石川冤罪説に対して距離をおく立場をとった。 一方日本共産党連帯関係にある全国部落解放運動連合会全解連)は、狭山裁判差別裁判ではないとの立場をとった。同時にいわゆる解放教育」について、部落解放同盟などが推し進めている同盟休校教育権蹂躙であり、また保育園児にまで「石川兄ちゃんかえせ」「日共粉砕」などと叫ばせているとして、解放同盟激しく非難した部落解放同盟による「狭山同盟休校」は1976年から始まり同年5月22日には日本全国19都府県連で150010万人の児童生徒休校参加した。この「狭山同盟休校」は1984年まで続いた後、「狭山集団登校」「狭山ゼッケン登校」として存続した。また、中核派系部落解放同盟全国連合会全国連)でも小中学生の「狭山集団登校」をおこなっている。 大阪市内の「同和教育推進小学校では、狭山事件教材が行われ、小学1年生書き取り練習解放歌「狭山差別裁判うちくだこう」の歌詞書き写させる授業なされたまた、学習到達目標として、小学校1年生には「石川氏無実理由2つ以上いえる」、2年生には「石川氏無実理由3つ以上いえる」などの基準掲げられた。このような取り組みは 「現在係争中事件こうした形で教材化することは第一に教育基本法第8条2項の『法律定め学校は、特定の政党支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。』に違反することである。さらに第二に、公正な裁判要求し無実実証すれば勝利するのであり、『さべつさいばんうちくだこう』などという方針では、石川氏無罪ならない。『さべつさいばんうちくだこう』は裁判そのもの否定し今日力関係のなかではむしろ厳刑客観的に石川氏に強いる路線であり、反戦トロツキストやっているような、笑止小児病スローガンにすぎない」 と批判受けた全解連中西義雄1976年発表論文部落解放到達点と展望」 で以下の見解述べている。「狭山事件犯人石川被告きめつけるには、法律には素人であるわたしたちにさえ、断定的な証拠をつかむことはできないかといって石川被告が完全に無実であるとする明白なアリバイは、一審いらい、石川被告無実あきらかにするために献身してきた弁護士によっても、つきとめることができなかったからだ。わたしたちは、今日でも、最高裁事件真実公正な裁判つうじてあきらかになければならない。たとえ、あきらかにならなかったとしても、犯人であるか、どうか、疑わしいばあいは罰するべきでない、という立場にたっている」 中西義雄によると、全解連狭山裁判から手を引いた理由は以下の3つであるという。 石川がわれわれと同じ被差別部落民であるからといって石川無実断定することはできず、無責任に冤罪論を展開するわけにはいかないこと。 狭山裁判差別裁判でも権力犯罪でもなく一般刑事裁判であり、したがって被害者遺族のことも考えず権力」対「犠牲者」といった図式捉えるのは軽率すぎること。 石川やその家族部落解放同盟新左翼テロリスト接近し、その妄動加担していること。 全解連後身である全国人権連は、「献身的な弁護士らが「石川犯人ではない」と主張しましたが、石川本人が「自白」を維持したことから一審敗訴弁護士解任は、「解同」などが狭山事件を「差別裁判」と規定し日共排除」という反共主義まるだし大衆的裁判闘争障がい持ち込んだことにあります。(中略74年には石川自身も、反共部落排外主義の「解同」の立場にくみし、一審以来献身的に尽力してきた中田直人主任弁護人ら7名を一方的に非難誹謗する至ったため、75年2月中田弁護人らはこの裁判闘争から手をひかざるをえなくなったものです。」との見解示し石川当初起訴事実認めていたこと、および石川が「反共の「解同」に与した」ことを非難している。また、人権連事務局長茨城県人権連書記長新井直樹日本国民救援会見解に立ち、ブログの中で狭山事件を「えん罪事件」と呼んでいるが、人権連としては狭山事件について見解をまとめたことはない。 1978年には、奈良県生駒郡平群町立平群中学校で、「狭山裁判再審闘争」に生徒たち動員しようとする部落解放同盟要求PTA会長学校側拒否。これを部落解放同盟が「差別事件」として生徒を「同盟休校」させ、同校同和教育推進教員解任させる事態発展した平群中学校事件)。

※この「日本共産党と新左翼セクト間の対立」の解説は、「狭山事件」の解説の一部です。
「日本共産党と新左翼セクト間の対立」を含む「狭山事件」の記事については、「狭山事件」の概要を参照ください。

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