日本共産党との関わり、長十郎の脱退・除名
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1949年 3月7日 座員71名が日本共産党に集団入党(のち4人追加) 1952年 5月24日 赤平事件 1955年 11月 三代目翫右衛門、北京より帰国 1960年 2月 - 4月 訪中公演 1966年 3月 宮本顕治・毛沢東会談決裂。以降日中共産党が厳しい対立へ 8月 - 10月 訪中公演。この時、中国共産党紅衛兵により台本を改変。同行の幹部団員から故障が出るも、幹事長権限で強引に押し切る 11月 帰国凱旋公演(東京有楽町・よみうりホール)。改変された台本のままで上演 12月 歌舞伎十八番のうち「鳴神」をオーケストラ伴奏で行うという試みを実現(作曲:團伊玖磨) 1967年 8月 四代目長十郎は日本共産党への離党届を郵送、自ら記者会見。「日本の共産党は修正主義で、自分の考えている共産主義ではなくなった」との理由 同月 幹部会を開くも決裂 9月 座員総会で四代目長十郎を幹事長から解任。幹事に降格。新幹事長に五代目國太郎 1968年 「株式会社前進座」設立 7月 四代目長十郎を除名
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