五代目(1996年~)
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台北大橋(五代目)周辺図凡例 新北環河快速道路 環河北路 淡水河 ←台北捷運蘆洲線 環河快速道路 ←台北橋駅 大橋頭駅→ 台北捷運新荘線 ←機車道(重新路西行) ←快車道(重新路西行) 台北市大同区 新北市三重区 (民権西路東行)快車道→ (民権西路東行)機車道→ 環河南路 延平北路 1991年10月に起工、1996年6月中旬に竣工した。 1996年7月16日午前10時に開通式を開催、正午に正式開通となった。これが今日の台北大橋となっている。二輪車専用レーン(機車道)は橋の前後も含めて上下各650メートルが別途設置されている。
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五代目
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1964年の小山竜太郎「風魔小太郎」に「北条氏に五代ある通り、風魔小太郎にも五代あるといわれているが、もっとも有名なのは五代目の風魔小太郎である」とある。
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五代目
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2000年にマルハチ村松5代目社長に就任。先代の死去(2012年7月)に伴い、2013年4月に5代目村松善八を襲名。
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五代目
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五代目
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(生没年不詳) 二代目豊竹巴太夫の門下で豊竹富太夫が1833年に五代目若太夫を襲名。1850年頃ドサ回り中に狂死したという。 通称を「治郎兵衛」。
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五代目
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生没年不詳。常磐津九世家元・四代目常磐津文字太夫(初代豊後大掾)の養子。上州桐生の生まれであることから通称「桐生小文字」と呼ばれる。俗称は新安。1858年五代目文字太夫が離縁されたため養子に迎えられ、五代目小文字太夫を襲名。1862年に初代常磐津豊後大掾が没すると江戸三座で立語りをつとめるようになるが、義父の歿後まもなく故あって家元家を離縁となり、1863年、中村座の顔見世番付筆頭に記されたのを最後とし、家元家を離れて故郷の上州桐生に帰り静かに没したとされる。 代表曲:「五色晒」「市原野」等
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五代目
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(明治22年(1889年)2月7日 - 昭和35年(1960年)5月8日) 鶴澤政二郎 → 五代目鶴澤徳太郎 → 四代目鶴澤清六 本名:佐藤(桜井)正哉。東京市四谷区塩町出身。七代目竹本綱太夫(三代目竹本津太夫)の名跡養子。明治35年(1902年)6月初代鶴澤友松(初代鶴澤道八)に入門し、鶴澤政二郎(まさじろう)を名乗る。 『道八芸談』に入門時のエピソードが記載されている。「東京では築地二丁目に家を一軒借りて、一座の谷路太夫の女房が台所をしてくれ、皆一緒に住んでいました。今の清六は政治郎といってこのときに私のところへ来て、大阪へ連れて帰ったのです。もう一人友太郎というのも一緒に連れて帰りましたが、これは芸はよく、教えなくても具合など勝手に弾ける質でしたが、途中で辛抱出来ず、横須賀へ行って稽古屋になり其後死にました。政治郎の方は手が強張って中々弾けませんでしたが、私の家のいろいろな用事をさせている中でも朱の本など見て勉強を怠らなかった甲斐あって今日までになったのです。」しかし、師友松はこの年を最後に芝居から退き、因講からも抜けてしまい、芝居に復すのは大正13年(1924年)のこととなるため、政二郎は芝居に出るため、師もと元を離れ、明治39年(1906年)市の側堀江座に出座する。 山川静夫『人の情けの盃を』に、師のもとを離れ、堀江座に入る際の様子が収録されている。「清六は十二の時母親に死別した。祖母が将来を心配し、芸を身につけさせようと道八のところへ入門させ、二年ほど内弟子をしていたが、雑用のみにあけくれて、さっぱり稽古はしてもらえない。道八自身も舞台は休演がちである。この調子では、毎月食費から小づかいまで送ってくれる、年老いた祖母の存命中に舞台出演することもむずかしいと、清六は気が気でならなかった。清六は、寒中の深夜に井戸水をかぶり神に祈りつづけた。そして、とうとう道八に懇願した。「お師匠ハンが舞台にお出にならないのなら、せめて私だけでも舞台へ出していただいて修業させていただくわけにはいきませんか」しかし道八は許さなかった。「そんなことはいまは出来ん。そのうちに女中がきたら舞台へ出したる」また二ヵ月が経過した。となりの氷屋夫婦が清六にひどく同情してくれ、「なあ、これやったら師匠の家でいつまで辛抱したかてどうにもならん、早よう、出やはったほうがええ」とすすめるので、その夜のうちに荷物を夫婦にあずけて、翌朝五時に師匠の家をとび出した。それから堀江座での必死の修業がはじまった。清六の才能をみこんで、いろいろな師匠が、「どうや、わしの弟子にならんか?」と誘ったが、「いえいえ、私は道八師匠のところから無断で飛び出した男です。うれしゅうはございますが、どなたとなたというより皆さん全部を師匠と思って修業させていただきます」と不利を承知でことわったという。」 以降も堀江座に出座する。明治40年(1907年)5月堀江座の番付より、鶴の字が変わり、書体も中太へ(現在の半沢)。明治41年(1908年)10月で堀江座を退座。 明治45年=大正元年(1912年)7月23日養父七代目綱太夫が没する。そのため、この堀江座を退座している間に、七代目綱太夫の曾孫であるおとくの娘と結婚、七代目綱太夫の名跡養子となり、鶴澤清六家に入り、鶴澤清六家の後継者となる。 この婚姻により、政二郎は 高祖父:初代鶴澤清六(鶴澤きくの父) 曾祖母:鶴澤きく(初代清六の娘、初代新左衛門の妻、七代目綱太夫の伴侶) 曾祖父:初代豊澤新左衛門(鶴澤きくの最初の夫)、七代目竹本綱太夫(鶴澤きくの伴侶)※養父でもある 祖母:おあい(初代新左衛門と鶴澤きくの娘、二代目團平の妻。後に三代目大隅太夫の妻) 祖父:二代目豊澤團平(おあいの最初の夫)、三代目竹本大隅太夫(おあいの二番目夫) 義母:おとく(二代目團平とおあいの娘)※鶴澤きく・七代目綱太夫に引き取られ娘として育てられる 養父:七代目竹本綱太夫(鶴澤きくの伴侶)※曾祖父でもある 妻:おとくの娘 初代鶴澤清六、初代豊澤新左衛門、七代目竹本綱太夫(三代目竹本津太夫)、二代目豊澤團平、三代目竹本大隅太夫と姻戚関係を持つことになった。 「御内儀(七代目竹本綱太夫(三代目竹本津太夫)は、さいしよに初代の新左衛門さんに嫁づいてられたんですが、新左衛門さんが歿くなつてから津太夫(ししよう)と御一緒になられたんです。奇麗な方でした。--新左衛門さんとの仲に出来た娘さんのおあいさんといふのが、九市さん後に三代団平)に嫁づき、その後九市さんと別れて大隅さん当時初代春子太夫のおかみさんになつたんです。おあいさんと九市さんのあひだに出来たおとくさんといふ娘さんを、津太夫(ししよう)の家へ引取つて、可愛がつて一緒に暮らしてられました。……今の四代清六君の歿くなつた細君は、このおとくさんの娘だつたんです」 政二郎から見て、上述の通り義母となる二代目團平とおあいの娘であるおとくは、祖父母である鶴澤きく・七代目綱太夫に引き取られ、娘として育てられたため、鶴澤きくは政二郎のことを「孫婿」と表現している。また、同様に三代目清六の高弟である二代目清八も「今の四代目清六さんの御内儀さんは法善寺津太夫さんのお孫さんです」と語っている。 また、明治36年(1903年)に系統外ながらも、三代目鶴澤清六を襲名した三代目叶は、二代目鶴澤清七の前名にして、四代目清七が後に襲名した鶴澤勝次郎を名跡の三代目の襲名を望むも叶わなかったため、鶴澤きくから、鶴澤清六の三代目を一代限りで襲名することを求められた際のエピソードに、「三世叶より三世鶴澤清六に改名してゐた。叶の名前と清六の名前には余り深い芸の系統はないのである。この清六の叶は、三世鶴澤勝次郎と名のりたかったが、それが或る事情に依って思ふ様に運ばない。むしゃくしゃして、或る日、法善寺津太夫(※三代目竹本津太夫=七代目竹本綱太夫)の家に行くと、このお内儀さん(※鶴澤きく。初代鶴澤清六娘)が、そんなら私の家にある 清六の名を継いで貰へぬか、そんなら継ぎませうと言ふ様な訳で極く偶然の機会に叶から清六になったのである」「清六といふ名をあんたに磨いて貰ひたい。そしてあんたに門人もあるが、この名はあんた一代でこちらへ返してほしい。こちらの孫娘に三味線弾きを貰ふて四代目を継がしたいから」と、鶴澤きくが「四代目は孫婿をもらって襲名させる」と語っており、政二郎の初代友松への入門が明治35年(1902年)を考えると、鶴澤きくが三代目叶に三代目清六を貸した際には、まだ後継者(=孫娘の「おとくの娘」の婿 ※本来は曾孫娘であることは前述の通り)は決まっておらず、五代目徳太郎から四代目清六を襲名させる優秀な三味線弾きを求めており、そのお眼鏡に政二郎が適ったという時系列でとなる。 この観点からみると、後に相三味線となる二代目豊竹古靱太夫(山城少掾)の『豊竹山城少掾聞書』にある「今の清六君は四代目になりまずが、私と同じ東京生れで、こないだ歿くなった道八さんの門人です。はじめ政治郎といっておりましが、初代清六さんの家を繼ぐことになって五代目徳太郎になり、その後私の合三味線になるについて清六を襲名したのでした」は、「初代清六さんの家を繼ぐことになって五代目徳太郎になり」の部分は正しいが、鶴澤きくの発言にあるように、清六家を継ぎ、四代目清六になるために、前名の五代目徳太郎を襲名したのであるから、「その後私の合三味線になるについて清六を襲名したのでした」の部分は誤りとなる。 大正元年(1912年)9月近松座『本朝廿四孝』「信玄館(十種香)より奥庭狐火の段 切」で三代目竹本伊達太夫後の六代目竹本土佐太夫(天下茶屋)を弾き政二郎改五代目鶴澤徳太郎を襲名。当時23歳。三味線欄外に「政二郎改五代目鶴澤徳太郎」とある。堀江座の後継である近松座に復帰し、五代目徳太郎を襲名し、いきなり三代目伊達太夫を弾いたのであるから、序列が明確になる三味線欄に位置付けることが難しかった。奥庭狐火のツレ弾きを近松座の三味線のトップであった二代目豊澤團平が勤めた。 当時の劇評は、「伊達の糸を綱太夫の嗣子になった鶴澤政二郎が徳太郎と改名して弾くが弱年に似ぬ腕の冴は将来を思はしめる。」(毎日新聞)「十種香より奥庭狐火伊達の畑の物で頭から悪いと云ふにあらず、三味の徳太郎は大躰の筋が能いから餘り屑も出さず殊に團平が引立ツレ弾に出て居るから少しも間劣り無く伊達太夫相當の三味線である。「八百八狐付添て」で人形と倶に白地の衣裳に引抜く、床では兎に角伊達の美聲に徳太郎と團平のツレ弾き、道具は目の醒る計り美麗なり。」(浄瑠璃雑誌)と徳太郎の手腕を讃えている。 「綱太夫の嗣子になった」とあるように、「おとくの娘」の夫となり、七代目竹本綱太夫(三代目竹本津太夫)の名跡養子となっている。ツレ弾きを勤めた二代目團平から見れば五代目徳太郎は孫婿にあたり、三代目竹本大隅太夫からみても義理の孫婿にあたる。三代目竹本伊達太夫(後の六代目竹本土佐太夫)は三代目竹本大隅太夫の弟子である。また、養父七代目竹本綱太夫が得意とした「沼津」も同月の狂言に選ばれる等、一家一門で鶴澤清六家の新たな跡取りの門出を祝している。(親戚関係の詳細は前述の通り。また初代清六の親族欄を参照) 以降も三代目伊達太夫を弾く。三代目伊達太夫は後の六代目竹本土佐太夫で、師友松が長く弾いていた。 翌大正2年(1913年)9月で近松座を退座。伊達太夫の巡業に従う。大正3年(1914年)1月御霊文楽座に入座。近松座同様、欄外となる。翌2月伊達太夫も文楽座に入るが、相三味線は豊澤猿治郎となっている(番付も太夫付)。同年5月8日より3日間、三代目清六の故郷である静岡にて、清六父母追善興行が静岡入道館で行われた。「古靱、静(四代目大隅太夫、三代目清六甥)、光、つばめ(八代目綱太夫)、い、清六、徳太郎、芳之助(五代目弥三郎、三代目清六養子)、浅造(四代目重造、三代目清六門弟)」と、『義太夫年表大正篇』にある。 同年9月御霊文楽座花勇改五代目鶴澤勇造の久々の出座と、京都より六代目竹澤團六(後の六代目鶴澤寛治)の文楽座入座があり、三味線欄外に、花勇改鶴澤勇造、鶴澤徳太郎、竹澤團六が右から並んだ。大正4年(1915年)1月まで3人が三味線欄外に並んでいたが、2月より解消。徳太郎は上7枚目となる。同年3月御霊文楽座『義経千本桜』「嵯峨庵室の段 切」を語っていた二代目古靱太夫を三代目清六の代役で弾く(3月5日、6日)本役では「大物ヶ浦 渡海屋の段 中」で静太夫を弾く。大正5年(1916年)4月御霊文楽座の番付より本澤となる。三味線欄の下5枚目。この頃、静太夫や五代目錣太夫や七代目駒太夫を弾いている。 大正6年(1917年)2月御霊文楽座にて初代古靱太夫四十回忌のため『芦屋道満大内鑑』が上演され、徳太郎は「蘭菊の段」で三代目清六のツレ弾きを勤める。大正8年(1919年)9月下3枚目に上る。大正11年(1922年)7月6日~11日に御霊文楽座で行われた第1回向上会で静太夫の『菅原伝授手習鑑』「松王首実検の段(寺子屋の段)」を弾く。当時の劇評に「靜太夫の寺兒屋の段、大まかな節廻しに間づらい所もあったが何しろ大成功だ。大隅太夫の襲名迄には間もあるまい、今暫らくの辛抱だ。糸の徳太郎もよく此人を助けて大々的成功裡に演了せしめた、靜の成功は確に徳太郎の健腕に俟っ虚が多かった。」とある。 大正12年(1923年)10月文楽座『仮名手本忠臣蔵』「六段目 勘平住家の段」で二代目豊竹古靱太夫を弾き、 四代目鶴澤清六を襲名。番付上は古靱太夫の太夫付となっている。同年1月に三代目清六が没し、古靱太夫の相三味線は二代目豊澤新左衛門となっていたが、五代目徳太郎が相三味線となるにあたり、四代目鶴澤清六を襲名した。番付の口上に「此度鶴澤徳太郎儀御贔屓様方のお勧めに預り四代目鶴澤清六を襲名仕り今後共芸道相励み度き所存に有之候次第何卒併せて御引立の程伏してお願ひ申上」とある。以降、昭和24年(1949年)まで二代目古靱太夫の相三味線を勤める。当時の劇評に、「この古靭の絃を四代を襲名の徳太郎の清六が弾いたお目見得で未だ何の将色も見えなかつたが達者に綺麗に弾いた」「静の口上ありて古靭四代目清六。懸命に語るので聞應へせり。糸も此分ならば勤まらう。」とある。 この襲名に付き、「清六襲名ですが、私は元来先年亡くなられた道八師の弟子で初め政二郎といひ、それから徳太郎になつて、文楽へ入つてからは錣太夫(五代目)を弾いて居りました。すると三代目清六師が亡くなられた翌年の大正十二年三月頃でしたか、文楽の勘定場の中村仙助が私の所へ来て、當時今の山城さんの古靱さんが清六師に逝かれてから、新左衛門(二代目)さんが弾いてゐられましたのを、両雄並び立たずといふのか、又新左衛門さんだけの人には自分の流儀があつて、古靱さんがすべて清六師通りに弾いてほしいといふのに、一寸さうはいかない事があつてどうもしつくりいかない。そこで文楽としても新左衛門さんだけの人にけちをつけたくないから、今の中に別れさせて、その代りに貴方に弾かしたいといふのです。私は一応師匠の道八に相談してからといつて帰しました。と二、三日たつてから又仙助が来て、古靱を弾くについては名人の四代目清六を襲名してくれとの事で、これも即答はせず道八師に相談致しました。すると師匠は反対はせず、新左衛門にきずをつけずにお前が代るならいゝだらうといふので襲名を決心いたしましたが、私が三十六歳の時でした。」と清六が語っている。また、この清六襲名を機に、「折角売出しの古靱さんにすまぬと思」い、素人弟子の稽古を山城少掾との相三味線を解消するまで断り続けた。 豊竹古靱太夫と鶴澤清六は初代同士の縁であり(初代清六は古靭太夫の師匠の初代靭太夫の相三味線でもある)、三代目清六に弾いてもらうこととなった、津太夫が継げなくなった津葉芽太夫に古靱太夫名跡を預かっていた四代目徳太郎(八代目三二)が「清六さんに弾いて貰ふのやつたら、古靱を襲名したらどうや」と二代目古靱太夫を譲られた経緯もあり、古靱太夫と鶴澤清六は縁の深い名跡同士であるが、そもそも、二代目古靱太夫は三代目津太夫(七代目綱太夫)の後継者であり(本来は津太夫となる予定だった)、竹本綱太夫名跡を預かる当時の竹本綱太夫家の当主であるが、四代目鶴澤清六は七代目綱太夫の曾孫婿にして名跡養子であることから、芸脈の面での七代目綱太夫の後継者と、血脈の面での七代目綱太夫の後継者の相三味線となった。 この襲名披露の『仮名手本忠臣蔵』は9月に幕が開く予定であったが、同年9月1日に発生した関東大震災の影響で、開幕が10月にずれ込んだ。出身地が東京である清六は、東京へのご贔屓への襲名の挨拶状と配り物(上等の家庭用石鹸)を8月28日、29日に東京に向けて鉄道便で送付したが、関東大震災によりその挨拶状と配り物が「殆ど全滅」した。「當時の私が貧乏の中を無理算段して送つたそんな挨拶状や景品が、殆ど全滅ですし、おまけに文楽の方も震災の餘波で、いつ初日があくや分らん。とうとう一月遊んでしまつて、十月になつてやつと初日があいたわけで、東京へは又新規まき直しに挨拶をしなければならず、いゝ名を襲名したといひ條、えらい損害で閉口致しました。」と語っている。 三宅周太郎はこの襲名披露にご贔屓から清六に送られた白い繻子の引き幕が思い出に残ったと語っている。 大正13年(1924年)9月御霊文楽座の三代目伊達太夫改六代目竹本土佐太夫襲名披露興行で、紋下の竹本津太夫が休演した。津太夫の相三味線に当時因講を抜けていた清六の師匠の初代友松を迎えるにあたり、弟子の清六が間に入り話をまとめたが、因講から抜けていた件が問題となり、両名が休演し、翌10月の芝居に友松事初代鶴澤道八として出座した経緯があった。無論、道八も津太夫の太夫付であり、古靱太夫付の清六と併せて、師弟で太夫付となった。 大正14年(1925年)10月御霊文楽座で『摂州合邦辻』「合邦住家の段 切」で古靱太夫を弾く。『義太夫年表大正篇』に「摂州合邦辻は阪地に於て暫くその上演が禁止されたりしたが此度解禁となりたるものなり」とある。 大正15年=昭和元年(1926年)3月御霊文楽座『仮名手本忠臣蔵』では古靱太夫が番付上七段目の平右衛門ひと役であったため、八段目の道行の二枚目を弾いたため、清六の名は三味線欄の欄外で雨ざらしとなった(実際は、古靱太夫は休演)。「尤も古靭の出られぬ事は病氣で致方もないとはいふものヽ、出られぬ事を承知して番組に載せるとは客を欺くに當る。番組編成後に出られぬ様になったといふのか。然らば古靭の三味線清六を何故雨曝しにしたか。恐らく立派な癖明は出來まい。古靭の温厚に附込んで一種の侮辱を加へたものと推測する」と当時の劇評にある。翌4月同座で古靱太夫は復帰し、『勧進帳』の弁慶を語ったが、シンを六代目友治郎が弾き、清六は2枚目だったため、前月と同様に三味線欄外の雨ざらしとなった。5月同座『菅原伝授手習鑑』「丞相名残の段」で古靱太夫の太夫付に戻った。11月同座『天網島時雨炬燵』「紙屋内の段 切」を勤めるも29日午前11時よりの火災で御霊文楽座が焼失する。翌昭和2年(1927年)1月道頓堀弁天座で興行を再開した。 昭和5年(1930年)四ツ橋文楽座の杮落し公演で、古靱太夫が『平家女護島』「鬼界ヶ島の段」を復活させる。これにあたり、前年12月に東京の豊澤松太郎師匠に稽古を受けたが、清六が病中であったため、師の初代道八がその稽古に付き添い、公演も中日迄道八が代役をすることになった。『道八芸談』の「出勤のおぼえ」では「清六病気のため古靱太夫の「平家女護島二段目切」を一週間代役にて弾く」とある。 戦時中は茨城県疎開していたものの、文楽の再開の知らせを聞き、三味線を二挺背負い、大阪に駆け付けた。「昭和二十年三三月十三日の、大阪の空襲で、文楽座が炎上した。(略)そんな中で、こんなことで負けていられるか、と、朝日会館で文楽の幕をあけた。二十年の七月であった。(略)その噂を、風のたよりに聞いて、茨城県の下妻からまた奥へ一里という、赤須のおかいこ部屋にかくれていた。鶴澤清六(四代目)などは、ぼろぼろの洋服を着て、その背に、大事な三味線を、二挺背負って、焼きただれた東京へたどり着き、それからまた、はるばる、東海道と、不自由なのりものを、のりつぎ、のりつぎ、大阪の朝日会館に着くと、二日目から、ひさしぶりに、古靱大夫の三味線を弾いた」と安藤鶴夫が記している。 昭和22年(1947年)2月四ツ橋文楽座にて『菅原伝授手習鑑』「道明寺」が初代豊竹古靱太夫 初代鶴澤清六 七十年忌追福芸題として上演され、「相丞名残の段 切」を古靱太夫と勤めた。「此度先代古靱太夫及び初代鶴澤清六の七十年忌追善を兼ねて其の追憶の狂言を加えて其面影を偲ぶ事と相成り申候次第にて」と番付の口上にある。同年3月27日12時半より御殿場秩父宮邸にて掾位授与式が営まれ、豊竹古靱太夫が秩父宮より山城少橡藤原重房の掾位と紋を賜り、御前演奏として、『菅原伝授手習鑑』「道明寺の段のうち相丞名残りの場」を演奏した。 同年6月14日四ツ橋文楽座にて天覧の栄誉に浴し、『恋女房染分手綱』「重の井子別れの段 切」で山城少掾を弾く。終演後、一座代表として豊竹山城少掾、鶴澤清六、吉田文五郎がお言葉を賜る。同年12月26日、昭和二十年度大阪府、大阪市主催の芸術祭賞を豊竹山城少掾、鶴澤清六、吉田文五郎が天覧の『恋女房染分手綱』「重の井子別れの段」で受賞。 昭和24年(1949年)1月大阪日本橋松坂会館にて文楽座因会の第1回公演が行われる。「文楽座因会設立趣意の創立同人」に名を連ねている。役場は、此の処櫓下豊竹山城少掾 三味線鶴澤清六 人形玉手御前 吉田文五郎顔合せにて相勤めますと角書きされた「摂州合邦辻 合邦住家の段 切」。以降、四ツ橋文楽座での興行にても、山城少掾、清六、文五郎が勤める旨の角書きがある。 同年10月3日、東京帝国劇場にて『菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段 切」を山城少掾と勤めていたが、27年間の相三味線を解消する声明を発表した。山川静夫『人の情けの盃に』に、妻の佐藤静の談として、その際の様子が収録されている。「その日、清六は静の前で、発行されたばかりの茶谷半次郎著『山城少掾聞書』を読んでいた。と、何が癇にさわったのか、突然顔色をかえて、「もう山城とは絶縁する!」と言い出した。静はびっくりして、「どうなさったんです?そんな急に」「この本に書いてあることが許せん!」清六は手をふるわせながら女房に本をわたした。内容は山城少掾の芸談である。」その本は、この年の夏に刊行された『山城少掾聞書』で、清六の癇に障った内容は、「鬼界ヶ島の段」の下記の記述によるとされている。 「道八さんに弾いて貰つて関心しましたのは――松太郎さんに稽古していただいているあいだは、差向かいの稽古なのと、こつちも憶えるほうに気を奪われていて、さほどに感じなかつたんですが、道八さんの三味線を聴いていると、〽俊寛が身に白雪の、つもるを冬、きゆるを夏、風の景色を暦にて、春ぞ秋ぞと手を折れば、凡日かずも三年の、言問ふ物は奥津波、いそ山颪浜千鳥――の「おきィつなアみ」というところの、ツト、ツト、ツーン……というだけの手ですが、そこを弾かれると、いかにもドドドーン、と波が打寄せてくるように感じられるんです。なんにしても道八さんの三味線は、粘り気のつよい三味線でしたからね……。仲日ごろから、道八さんに稽古して貰つた清六君が替りました。「鬼界ケ島」の稽古中、こないだの七代目の吉兵衛さんが知つていると聞いて、一度行つて聴かして貰いましたが、四十年しまい込んで、語り崩してないだけに、松太郎さんのとちつとも違つたところがないのに感心しました」 同公演の三の替りの『芦屋道満大内鑑』「葛の葉子別れの段 切」までを勤め、文楽座を退座する。この「葛の葉子別れ」が同年の芸術祭文部大臣賞を受賞した。 大阪毎日新聞の11月5日付に「『清六』ついに東京へ 少掾との仲直り望み絶ゆ(略)清六は近く恩師故鶴澤道八の五周忌法要を済ませた上来る十日に京都烏丸今出川の自邸を引き払い、東京永住のため出発」とあり、赤坂山王下へ清六は引っ越した。山城少掾の相三味線は門弟八代目綱太夫の相三味線であった十代目弥七が勤め、後に三代目清六の門弟である四代目清二郎が初代鶴澤藤蔵を襲名した上で勤めることとなる。昭和25年(1950年)芸術院賞を受賞。 2年6ヵ月のブランクを経て、昭和27年(1952年)5月、豊竹松太夫(後の三代目竹本春子太夫)の相三味線として文楽座に復帰。「鶴澤清六復帰出演」と題されている。『壺阪観音霊験記』「沢市内より御寺まで」で豊竹松太夫を弾いた。ツレは門弟の初代鶴澤清六と豊澤新三郎。鶴澤清六の上には三味線とあり、三味線格となっている。以降、松太夫を弾く。 昭和28年(1953年)第五回毎日演劇上音楽賞を受賞。同年3月四ツ橋文楽座『本朝廿四孝』「奥庭狐火の段」が評価され、第2回因協会賞を受賞。同年3月27日神戸繊維会館で「鶴澤道八追善」と銘打たれた興行があるが、清六は松太夫の野崎村を弾き、追善狂言の「小鍛冶」には出演していない。津太夫寛治郎他の出演。昭和29年(1954年)3月四ツ橋文楽座、三和会を脱した四代目伊達太夫を弾く。松太夫の役場も弾いており、2人の太夫を弾いた。同年5月四ツ橋文楽座『仮名手本忠臣蔵』「旅路の花婿(落人)」を鶴澤清六作曲 山村若振付 釘町久磨治装置にて上演。4月26日付の大阪毎日新聞に「清元から文楽座の義太夫に作曲したものにはすでに『かさね』があるが、今度の『勘平の道行』はもともと義太夫から清元に移ったものだけに、今度の作曲は義太夫への逆輸入になるところに問題がある。作曲者の清六氏は「義太夫の作曲は個人的にはしていますが舞台にのせるのはこれがはじめてです。清元の歌詞をアレンジして、人形でも動きのあるように工夫をこらしました』と語っている」とある。同年6月の新橋演舞場にても鶴澤清六作曲 山村若振付『落人』が上演されている。 昭和30年(1955年)1月四ツ橋文楽座にて再び四代目伊達太夫と松太夫の両人を弾く。そのため、松太夫の「重の井」、一座総出演「寿式三番叟」、伊達太夫の「曲輪文章」、松太夫の「尼ヶ崎 前」の四場を弾いた。その「寿式三番叟」で門弟にて自身の甥(妻の妹の息子、義弟初代清友の養子)である鶴澤清治が初舞台を踏む。同年2月15日、豊竹山城少掾、八代目竹本綱太夫、六代目竹本住太夫と共に、重要無形文化財保持者の個人指定(いわゆる人間国宝)の第一次指定を受ける。 同年道頓堀文楽座開場記念狂言『延喜帝』の作曲をする。「平田都作 鶴澤清六作曲 井上八千代振付 前田青祁美術考証並に装置」とある。同年12月28日の開場式で上演され、翌1月からの杮落し公演でも上演。同芝居で門弟にして兄弟弟子(初代道八門弟)、義兄弟(妻が姉妹)の初代鶴澤清友が自身の前名である鶴澤徳太郎の六代目を襲名している。昭和31年(1956年)5月道頓堀文楽座にて鶴澤清六作曲の『葵の祭』(源氏物語より)が上演される。「平田都原作 丁東詞庵脚色 鶴澤清六作曲 山村若振付 吉川観方美術考証 松田種次装置」とある。同年8月道頓堀文楽座にて鶴澤清六作曲「湖の火」より『雪狐々姿湖』が上演される。「高見順原作 有吉佐和子脚色演出 鶴澤清六作曲 西川鯉三郎振付 大塚克三装置」とある。この『雪狐々姿湖』の作曲で昭和31年度人形浄瑠璃因協会賞を受賞している。昭和32年(1957年)5月道頓堀文楽座にて鶴澤清六作曲『狐と笛吹』が上演される。「北条秀司作 鷲谷樗風脚色 鶴澤清六作曲 楳茂都陸平振付 大塚克三装置」とある。大阪朝日新聞の5月13日付の記事に「終盤に人形遣いが白衣を着用、浄瑠璃も両床に分ける」とある。同年7月25日、吉田難波掾、八代目綱太夫、四代目清六らが東横堀川から天神祭の船乗込みを行い、桜宮公園前仮舞台で三番斐を奉納と、翌26日の大阪日経新聞の記事にある。 同年8月26日道頓堀文楽座の「ニッポンの宝」の撮影に参加。アメリカ人の日本文化理解を促進するためのアメリカ大使館制作の総天然色映画で、仮名手本忠臣蔵 八段目を撮影した。同年11月道頓堀文楽座にて鶴澤清六作曲『おはん』が上演。「宇野千代原作(中央公論版) 大西利夫脚色 鶴澤清六作曲 大塚克三装置」とある。昭和33年(1958年)1月30日第7回人形浄瑠璃因協会賞を松太夫と共に受賞。長局の段の演奏が評価された。昭和34年(1959年)12月9日「竹本綱大夫の文楽座次期櫓下就任に反対していた鶴澤清六は、病気を理由に一月以降の文楽座興行への出演を拒否する旨松竹に申し入れる」と大阪毎日新聞12月10日の新聞にある。 以降の経緯は、以下の通り。昭和35年(1960年)「一月二十日、鶴澤清六の反対により竹本綱大夫の紋下就任が頓挫していたため、全員一致を望む松竹大谷会長は紋下問題を白紙に戻すとした。二十一日、引退を表明して休演中の鶴澤清六は大野伴睦らの斡旋で因会に復帰することになる。二十二日、紋下問題で人格を批判されたとし、竹本綱大夫は竹澤弥七と共に文楽座支配人を通じて二月東京公演不参加を申し入れる。二月四日、鶴澤清六が紋下問題で竹本綱大夫の感情を害したことに対して遺憾の意を表明したため、竹本綱大夫は大谷会長の斡旋もあり、二月の東京公演の出演を了承」 同年4月24日初日道頓堀文楽座では昼の部『壇浦兜軍記』「阿古屋琴責の段」、夜の部『伽羅先代萩』「御殿の段」を勤めていたが(5月1日よる昼夜入れ替え)、5月6日昼の部の「御殿の段」のみ出演し、夜の部の阿古屋を休演。代役に義弟の六代目徳太郎。翌7日休演、8日に逝去する。戒名は至藝院釋正緻居士。墓所は高野山奥之院。戒名は至藝院釋正緻居士。墓所は高野山奥之院。 有吉佐和子『一の糸』で描かれる"露沢清太郎"のモデルで、「おとくの娘」と死別した後は静(『一の糸』の"茜"のモデル)と再婚した。静の妹と結婚したのが、弟子の六代目鶴澤徳太郎(後の二代目鶴澤道八)である。また、甥(義弟二代目鶴澤道八の息子)の鶴澤清治が『一の糸』の舞台化に際し、脚本・演出・音楽を手掛けている。その際のパンフレットのインタビューに「私の恩師であり、「一の糸」の徳兵衛のモデルである清六師匠と、茜こと静夫人とは私が生れた時より深い関わりのあるお二方でございます。私は夫人のことを「東京おばちゃん」と呼び、母は「ママさん」と呼んでいました。小学校の入学祝いはランドセル、中学の時は腕時計を、私の注文を細かく聞いて、お二方で選んで贈って下さいました。昭和三十年当時は赤坂山王下の立派な家にお住まいでした。私も東京公演の時など何度か泊めていただき、夕食後は「銀座の千疋屋でチョコレートパフェーを食べよう」と言って、ハイヤーで出かけたりもしました。当時それが大層ハイカラで贅沢に感じ、今でも鮮明に記憶に残っています。また、不思議な縁と申しましょうか、「一の糸」で唯一なぜか実名で登場します箏の師匠、今井慶松は、家内の祖父にあたります。生前の静夫人から、慶松先生に連れ弾きをしてもらって箏の会に出たという自慢話をよく聞かされました。ですから私が文楽で箏を弾く時などは、色々注意を受けたものでした。さて、清六師匠は私にとって神の如き存在でございます。数々の名盤を聞くにつけ、その物凄さに、ただただひれ伏すばかりです。私のもう一方の恩師である竹澤彌七師匠が、清六師匠のレコードのリニューアル盤の監修をされた時「わしも随分生で聞かしてもろてきたけど、これ程、凄いとはなァ」としみじみ仰っていました。彌七師匠をしてこう言わしめる三味線。正にひと撥ずつ命を削って音を出されているように私には聞こえます。この師の至芸を有吉先生は「一の糸」で見事に表現されています。しかしこの様な音を生で再現する事は到底、不可能でございますので、何卒皆様方におかれましては寛容なるお心をもちまして、お聞き下さいますよう伏して御願い申し上げます。有吉先生には、昭和三十一年に先生の書かれた新作文楽「雪狐々姿湖」で私が胡弓を擦らせていただき、それ以来よく目を掛けていただきました。二十二、三年以前になりますが、有吉先生と私が静夫人のお宅におじゃましました時、つい話が長びいてしまい、先生が出席しなければならない大使館のパーティーに遅れそうになり、普段着につっかけサンダルという出で立ちで招待状も持たずに並みいる盛装の人々の中へ堂々と入って行かれました。私はその時、先生に「あなたエスコートしなさい」と言われて有無を言わさず連れて行かれました。多くの著名人に私を紹介されましたが、本当に冷汗ものでした。」と答えている。 曾祖母にあたる鶴澤きく(初代鶴澤清六の娘)が経営していた茶見世(後に「カフェーリスボン」というカフェとなる)のあった法善寺の一角で、天ぷら屋「鶴源」を経営。「鶴源は天婦羅屋、大阪風の衣のややあついテンプラ、主人は文楽の三味線引きの鶴澤清六。酒は菊正。梅月や天寅に比敵する一流店であった。」と宮本又次の「法善寺界隈由来記」に記されている。
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五代目
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野澤小庄 ⇒ 鶴澤庄次郎 ⇒ 三代目鶴澤伝吉 ⇒ 五代目鶴澤友次郎 ⇒ 五代目野澤喜八郎 ⇒ 五代目鶴澤友次郎 三代目野澤喜八郎門弟。後に二代目鶴澤伝吉(四代目鶴澤友次郎)門弟となる。 本名:清水友次郎。通称:建仁寺町。文化12年(1815年)京都に生まれる。文政13年(1830年)15歳の時に、大坂に出て、二代目鶴澤伝吉(四代目鶴澤友次郎)の門弟となり、鶴澤庄次郎となる。 天保5年(1834年)3月備中宮内芝居の番付に鶴澤庄次郎の名前がある(筆頭は師匠二代目伝吉)。以降、天保9年(1838年)3月京誓願寺芝居、同年10月四条道場芝居太夫竹本綱太夫の芝居で、四代目綱太夫の一座に加わっている。天保11年(1840年)7月御霊社内芝居太夫竹本綱太夫『木下蔭狭間合戦』他の三味線筆末に京 鶴澤庄治郎とある。山城少掾の番付書き込みに「京鶴沢庄治郎トアルハ二代伝吉ト成後年五世友治郎トナラレシ人」とある。当時は四代目竹本むら太夫を弾いており、天保12年(1841年)正月四条北側大芝居太夫竹本綱太夫『妹背山婦女庭訓』では御殿の段 切を語る四代目竹本むら太夫の横に別書きされている。この頃の改名録に「野澤勝次郎改 鶴澤庄次郎」とあるが誤りである。 天保15年(1844年)正月京宮川町芝居 太夫竹本綱太夫『義経千本桜』『けいせい博多織』にて、庄次郎改三代目鶴澤伝吉を襲名。四代目綱太夫の相三味線の披露による襲名であることから、四代目綱太夫役場である渡海屋の段 中、すしやの段を弾いた。「鶴沢庄治郎二代目伝吉ヲ襲名後ニ五世友治郎名跡相続ス通称建仁寺町迚名高シ四世竹本綱太夫之引立ニ預ルト常ニ申サル、」と山城少掾が番付に書き込んでいる。 この三代目伝吉の襲名は、当時29歳の鶴澤庄次郎が当時の大立物である四代目竹本綱太夫の相三味線を勤めることとなり、庄次郎の名前では紋下を弾くには不釣り合いであるために、庄次郎の師匠である二代目鶴澤伝吉に掛け合い、伝吉の名を三代目として庄次郎に譲らせ、二代目伝吉には大名跡である鶴澤友次郎を四代目として襲名させた。あまりに急なことで大坂若太夫芝居は「鶴澤伝吉」で看板と番付を作成済であったが、綱太夫は看板と番付を「鶴澤友次郎」に書き直させたという。若太夫芝居の紋下である五代目竹本染太夫(後の竹本越前大掾)をも承諾させるほど四代目綱太夫の力は強かった。 翌2月同芝居『妹背山婦女庭訓』の番付にも「庄次郎事鶴澤伝吉」とあり、前月に引き続いての襲名披露となった。綱太夫の役場は「芝六住家の段 切」と「山の段 大判事」であり、これが三代目伝吉の襲名披露狂言となる。正月2月と伝吉の名前は上2枚目であったが、3月以降の番付では四代目綱太夫の太夫付となっている。 本来であれば、師匠と同様に豊吉から伝吉が襲名の順序であるが、四代目綱太夫が豊吉を飛ばし、いきなり伝吉を襲名させた。以降も、豊吉から伝吉が襲名されている。同年の見立角力では京江戸之分の大関に鶴澤伝吉が確認できる。 綱太夫の太夫付が続いたが、弘化4年(1847年)10月道頓堀竹田芝居『妹背山婦女庭訓』では三味線筆頭に昇格している(同芝居では初代豊澤團平らが豊竹三光斎の太夫付)。 嘉永元年(1848年)「当時名人太夫浄瑠理一本語てんぐ噺」という当時の太夫三味線の代表的な演目を見立てた番付には「伊賀越に誉れを残すかたきうち人のかゝみは岡崎のたん 竹本綱太夫 鶴澤伝吉」と記されている(『伊賀越道中双六』「岡崎の段」)。 嘉永5年(1852年)8月京寺町道場南新小屋『義士伝秋鉢植』「植木屋の段」で竹本綱太夫他の掛け合いを弾いたのを最後に、綱太夫と別れる。綱太夫は大坂の新築地清水町浜小家の芝居(天保の改革による移転中の文楽の芝居)へ向かったが、伝吉は京都に留まった。 嘉永6年(1853年)正月京寺町寅薬師『ひらかな盛衰記』三段目で竹本老松軒の太夫付で鶴澤伝吉がいる。同年9月四条北側大芝居の二代目津賀太夫改竹本山城掾藤原兼房の受領披露公演に上二枚目で出座。文久2年(1862年)正月四条南側大芝居『義経千本桜』他の三味線筆頭に鶴澤伝吉。同芝居で万八改二代目鶴澤吉左衛門の披露が行われている。同年の見立番付では「差添人 京 鶴澤伝吉」となっている。 門弟の二代目豊吉が元治元年(1864年)4月に四代目伝吉を襲名していることから、既にこの頃五代目鶴澤友次郎を襲名していた。同年の見立番付「三都太夫三味線操見競鑑」には「頭取 鶴澤伝吉」「西小結 鶴澤豊吉」とそれぞれあるが、改版では「頭取 伝吉改鶴澤友次郎」「西小結 豊吉改鶴澤伝吉」となっており、同年に襲名が行われたことが確認できる。『増補浄瑠璃大系図』には「延元年庚申師匠友治郎事故人となる師存命中より譲り渡す約束有て門弟中も承知の上慶応二年丙寅年鶴澤友治郎と改名三府は申に不及他国迄も披露を致す是五代目相続也」とある。芝居へでの襲名披露は、慶応2年(1866年)6月四条北側大芝居『お染久松 野崎村」で七代目竹本咲太夫を弾いた。別版の番付には伝吉事鶴澤友次郎とある。 慶応3年(1867年)6月四条道場芝居『木下蔭狭間合戦』では三味線筆頭に鶴澤友次郎がおり、鶴澤亀助事三代目鶴澤豊吉の襲名披露が行われている。以降も、七代目咲太夫を弾く番付が確認できる。 明治改元後も京都に留まったが、『野澤の面影』によれば、明治6年(1873年)より五代目豊竹巴太夫(後の初代柳適太夫)を弾く。巴太夫に従い、同年11月道頓堀竹田芝居太夫竹本山四郎の芝居に出座。筆末のハコに入っている。三味線筆頭は初代鶴澤清六である。明治7年(1874年)7月まで出座した。同年10月上旬に巴太夫・友次郎が名古屋の首振り芝居に出座。翌、明治8年(1875年)四月道頓堀竹田芝居に戻り、筆末に座る。翌5月まで出座し、五代目春太夫・初代團平が文楽座を退座したタイミングで、同年9月松島文楽座にて庵格で「スケ 三味線鶴澤友治郎」として文楽座に初出座。同じく文楽座へ移った五代目豊竹巴太夫(後の初代柳適太夫)の『義経腰越状』「泉の三郎館の段 切」を弾いた。翌明治9年(1876年)1月まで出座した。明治11年(1878年)に巴太夫と東京に下る。明治12年(1879年)帰阪し、正月道頓堀角丸芝居で箱書きの三味線筆頭。同年3月まで出座した。同年5月名田呉田長尾席の素浄瑠璃興行の番付に「友次郎改メ五代目野澤喜八郎」とある旨が『野澤の面影』に記されている。 明治13年(1880年)に最初の師名である野澤喜八郎を五代目として襲名(一般的に五代目喜八郎襲名を明治13年とするが、前述の通り明治12年)。 最初の師は三代目喜八郎であり、四代目は空席であったが、同門の三代目野澤吉五郎(前名野澤金蔵)が四代目喜八郎を相続できないことを深く恥じ切腹したことに同情し、其の墓前に四代目喜八郎を追贈し、自身は五代目喜八郎となった。改名に際し「世の春をよそに見る迄 としを経て もとの野澤にすむ かはづ哉 野喜自詠」と詠んでいる。 明治14年(1881年)4月京四条北側大芝居で東京の四代目播磨太夫を弾く。 しかし、同年12月四代目野澤吉兵衛の没後、吉兵衛名跡についての争いが門弟の二代目野澤勝市、五代野澤吉彌の間で発生したため、喜八郎が仲裁に入り、勝市には野澤の元祖名である喜八郎の六代目を(吉兵衛よりも元祖名の喜八郎の名前が上であるとした)、吉彌には吉兵衛の五代目をそれぞれ襲名させることで決着を見たため、自身は元の五代目友次郎へと復した。 明治26年(1893年)3月御霊文楽座に四代目播磨太夫と共に出座。播磨太夫の名の上に東京下りとある。友次郎は筆下別ハコに位置している。播磨太夫と友次郎の役場は切狂言の『博多織戀オモニ(金へんに荷)』「柊屋の段」である。同年4月同座では友次郎のハコの上にスケと記されている。播磨太夫・友次郎の役場は『卅三間堂棟由来』「平太郎住家の段」である。これが大阪での最後の舞台となった。 明治28年(1895年)8月4日に死去。行年81歳。戒名は観譽紫連寿翁禅定門。 墓所は京都鳥辺山本寿寺。 『増補浄瑠璃大系図』五代目友治郎の項に、鶴澤友治郎の名前系図をまとめた一巻の写しが記載されている。 前文 抑鶴澤氏友治郎之名義たるや其由来此巻に判然として三二検校に始ると云り頗三弦の妙手にあらざれば此名跡を継を許さゞるを確き則とす爰に五代の鶴友此道の至妙を極めて佳名天下に冠たるは普く人の知る所なれば今之を挙ぐるに及ばず俗称は清水氏にして京都祇園町縄手の角邸に占居す今度野澤喜八郎が名を引起せしは鶴野両氏の師恩を貴に重ずる所以なり鶴友は予が竹馬にして情最も厚きを以て序を需るに応ず 明治十五年 十二月 少天狗喜西 印 寄三弦祝 弾ならず三筋の糸の末長く 千代の色音や万世の友 キハチの三字を五七五の頭に冠らしめて きよく咲しはなは実となる ちからあり 友治郎系譜 初代鶴澤友治郎 前名三二盲人也 二代同 初代文蔵児島屋 三代同 初代清七松屋 四代同 初代豊吉籠島屋 五代同 初代小庄当代也 一、鶴澤友郎(※ママ 鶴澤友治郎)は前名三二と云し御人正徳享保の頃盛んにして鶴澤の元祖也寛延二年七月に命終当明治十三年庚辰年迄百三十二年に成此名前殊の外大切なり容易に相続すべからず弟子共芸道相応に相成相続致度節は大坂表三味線の長たる人に相談の上相続すべし未熟の芸にて気儘に相続決て不相成又他人たり鶴澤家にて時に応じ芸道上達人名前所望致候節は譲るべし併相続後勝手に外々へ名前譲り候事無之様弟子共より相守可申又名前相続人無之節は弟子中え名前預り相守可申事。此外に野沢家濫觴之事実有之候得共是は野澤系譜に出せば略之師恩貴きもの皆人の知る処にして五代友治郎其恩報の志有て四代友治郎に生国魂精鎮社え納て神号を頂く 宇知昇佐保幸神(ウチノポルサホサキノカミ)四代目友次 『野澤の面影』には 五代野澤喜八郎事 五代鶴澤友次郎略歴(通称:建仁寺町)文化十二年京都ニ産レ本名清水友次郎と云フ幼ニシテ三代野澤喜八郎門下トナリ野澤小庄ト呼ブ文政十三年十五歳ニテ二代鶴澤傳吉(後ノ四代友次郎)門下トナリ鶴澤庄次郎ト改姓ス、弘化元年正月四代竹本綱太夫引立ニテ師ノ前名ヲ譲リ受ケ三代鶴澤傳吉ト改ム(師四代友次郎萬延元年逝去ス)慶応二年十一月再ビ師ノ名跡譲受五代友次郎ヲ相続ス、後年京都ヘ引退シ明治十三年 世の春をよそに見るまでとしを経て もとの野澤にすむかはづ哉 ト詠ミ幼師ノ名跡五代野澤喜八郎ヲ相続ス、明治十四年十二月四代野澤吉兵衛歿後名跡相続ニ就テ二代野澤勝市、五代野澤吉彌、両人の間ニ問題発リシ時仲裁人トナリ即チ二代勝市ニ六代野澤喜八郎ヲ與ヘ五代吉彌ハ五代野澤吉兵衛ヲ相続ト見事ナル裁キニテ目出度納マリ自身ハ再ビ五代鶴澤友次郎ニ復帰シ明治二十八年八月四日逝去ス 法名 観譽紫連寿翁禅定門 俗名 清水友次郎 京都鳥辺山本寿寺ニ葬ル 行年 八十一歳 とある。
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五代目
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(生年不詳 - 天保11年10月27日(1840年11月20日))四代目の子。二代目源助が三代目佐太郎を経て1823年に五代目傳左衛門を襲名。
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五代目
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鶴澤辰之介 ⇒ 初代鶴澤吉左衛門 ⇒ 五代目鶴澤三二 長く五代目竹本染太夫(越前大掾)の相三味線を勤める。 師匠や初出座が不明であるが、改名歴によれば、鶴澤辰之介から鶴澤吉左衛門を名乗ったとされている。また、辰三郎から鶴澤吉左衛門を名乗ったとする改名歴もある。辰之介を名乗る三味線弾きは、豊澤辰之介が文化10年(1813年)9月いなり境内を皮切りに、翌文化11年(1814年)6月いなり境内まで存在し、同月同座の6月27日からの芝居番付には鶴澤辰之介が登場するが(豊澤辰之介は無し)、以降辰之介という三味線弾きは番付から消える。文政3年(1820年)5月北の新地芝居で豊澤辰之介が再度番付に登場する。文政5年(1822年)8月四条南側大芝居の番付にも豊澤辰之介がいる。そして、文政6年(1823年)9月堺新地北の芝居の番付に鶴澤辰之助が存在。しかし、同年の見立番付には「世話人 京豊澤辰之介」とある。また、文政8年(1825年)に吉左衛門が江戸に下って後の文政9年(1826年)の見立番付にも「世話人 豊澤辰之介」とあることから、この豊澤辰之介と後に吉左衛門から三二となる辰之助(辰之介)は別人であることがわかる。そのため、鶴澤辰之助(辰之介)に絞った場合、文化11年(1814年)6月いなり境内、文政6年(1823年)9月堺新地北の芝居の番付のみとなる。 『義太夫年表近世篇』で確認できる最初の鶴澤吉左衛門は文政8年(1825年)正月江戸大薩摩座の番付で、「下リ 鶴澤吉左衛門」とある。また、番付についている口上にも「三味線下り鶴沢吉左衛門」とあることから、上方からの江戸下りである。では、上方にて辰之介改鶴澤吉左衛門の襲名が行われたのか、この江戸下りに際して行われたのかは『義太夫年表近世篇』では確認ができない。しかし、この江戸下りの芝居の口上に「当春上方表より太夫三味線人形呼下シ奉御覧入候右太夫名前之儀豊竹筑前竹本越太夫改枡太夫は改名仕候竹本雛太夫竹本房太夫三味線下り鶴沢吉左衛門毎度罷下り候」とあることから、上方で吉左衛門襲名を済ませての江戸下りと考えるのが妥当である。この江戸大薩摩座は、前年文政7年(1813年)4月中旬に再興しており、再興にあたり、既に二代目播磨太夫を名乗っていた三代目蟻鳳が一世一代で鶴澤福寿斎を名乗り出座した。 その大薩摩座で同年8月『兜軍記』の掛け合いを竹本津賀太夫、竹本綱太夫、竹本播磨大掾が勤め、三味線を鶴澤福寿斎が弾いた。一世一代とあることから、以降の福寿斎の出座はなく(後に播磨太夫に復した)、前述の通り翌年正月江戸大薩摩座にて吉左衛門が上方から下ることとなった。文政10年(1827年)3月江戸肥前座にも鶴澤吉左衛門の名前がある。同年5月江戸肥前座出座。6月江戸肥前座では筆末となる。 文政11年(1828年)正月京四条南側大芝居太夫竹本播磨大掾 太夫竹本綱太夫の番付に『恋娘昔八丈』「城木屋の段」「江戸 竹本高麗太夫 鶴澤吉左衛門」とあり、上方に上った。しかし、2月には江戸土佐座で『天網島』「茶やの段」「御目見へ出語り 下り竹本中太夫 三味線鶴澤吉左衛門」とあり、江戸に戻った。中太夫の太夫付でもあるが、三味線欄の下2枚目にも吉左衛門とある。筆頭は二代目鶴澤勝造、筆末は鶴澤清糸。4月は江戸肥前座の下2枚目と江戸での出座を続けた。文政12年(1829年)正月江戸土佐座の番付に「千歳 竹本染太夫 鶴澤吉左衛門」とある。三味線欄では筆末に座っている。天保2年(1831年)江戸土佐座『絵本太功記』「夕がほ棚の段 切」で竹本入太夫の太夫付となっている。三味線欄に吉左衛門の名はない。天保4年(1833年)5月江戸結城座『仮名手本忠臣蔵』「夜討之段」では竹本弦太夫の太夫付。三味線筆末に四代目鶴澤三二がいる。同年8月同座では『刈萱桑門筑紫土産』「高野山の段」で竹本入太夫の太夫付。天保5年(1833年)月不詳江戸結城座では三味線筆頭。 天保6年(1835年)正月江戸結城座の番付の筆末に「吉左衛門事鶴澤勝治郎」とあり二代目清七の前名である鶴澤勝治郎を襲名している。しかし天保7年(1836年)8月16日以前江戸大薩摩座『箱根霊験いざり仇討』「九十九館の段 切」の豊竹巴勢太夫の太夫付で鶴澤吉左衛門がいることから、既に吉左衛門に復したことがわかる。初代鶴澤勝治郎(二代目清七)は『増補浄瑠璃大系図』に「同(文化)十年の頃より東京へ赴き彼地にて評判よく去る御大名様方へ立入稽古致扶持人と迄成て晶眞に預り十余年彼地に住居致し文政八年乙酉秋帰坂致し」とあり、(『義太夫年表近世篇』ではその期間も上方の番付に鶴澤勝治郎が存在する)文政7年(1824年)正月江戸結城座では三味線筆頭に座る等、江戸で活躍し、文政8年(1825年)10月御霊社内では初代巴太夫の太夫付で「三味線 江戸 鶴澤勝次郎」と記されており、本拠地が江戸であったことがわかる。同年正月に吉左衛門は江戸に下っているため、勝次郎の江戸滞在と時期が被ることになる。二代目清七と初代吉左衛門の間に師弟関係があったかは不明であるが、この江戸滞在の長かった勝治郎の名跡を吉左衛門が一時期であれ襲ったことは、勝治郎の後継者を自任していた表れである。しかし、鶴澤清七は大坂の名跡であるため(三代目清七は初代勝右衛門が襲名した)、吉左衛門の勝治郎は認められることなく、すぐに吉左衛門に復した。翌文政9年(1826年)の見立番付では「大関 大坂 鶴澤勝治郎」とあり、二代目清七の本拠が大坂に戻っている。 天保11年(1840年)5月京四条南側大芝居では三味線欄中央に座る。翌6月同座では筆末に(筆頭は四代目寛治)。9月では下2枚目に(筆末は初代燕三)。同年の見立番付は世話人。天保12年(1841年)正月京北側大芝居太夫竹本綱太夫では筆末に。筆頭は別書きで四代目寛治、上2枚目に初代燕三。以降もこの京都の芝居に筆末で出座。筆頭は6月より初代勝七。初代清六は初代大隅太夫の太夫付。上2枚目に鶴澤安次郎(初代清八)。同年の見立番付では「京 鶴澤吉左衛門」として世話人に。天保13年(1842年)4月京四条南側大芝居では三味線筆頭に座る。筆末に初代燕三。天保14年(1843年)2月28日以前の大坂の番付では『国性爺合戦』「獅子ヶ城の段 切」で五代目竹本染太夫の太夫付となっている。三味線欄の筆頭は二代目伝吉、筆末は初代燕三。同年2月北堀江市の側芝居太夫竹本染太夫『仮名手本忠臣蔵』他では筆末に。筆頭は二代目伝吉。同年4月同座でも筆末。筆頭は二代目伝吉。同年9月の兵庫への巡業では三味線筆頭に。筆末が二代目伝吉(筆頭が伝吉で、吉左衛門がいない別版もある)。同年12月道頓堀若太夫芝居太夫竹本染太夫では筆末に。筆頭が伝吉改四代目友治郎。染太夫の太夫付で勝鳳改三代目吉兵衛。同年の「三都太夫三味線人形改名附録」には「辰之介 改吉左衛門」とある。同年の見立番付では行司欄に「京 鶴澤吉左衛門」とあり、大坂で出座しているが、京となっている。 弘化元年(1844年)正月道頓堀若太夫芝居では筆末に。筆頭は四代目友治郎。下2枚目に初代清八がいる。弘化2年(1845年)10月西宮芝居太夫竹本綱太夫 竹本染太夫では『国性爺合戦』「三段目 切」を語る竹本染太夫の太夫付。同じく紋下の竹本綱太夫は『伊賀越道中双六』「岡崎の段」を語り、三代目伝吉が太夫付となっている。翌11月兵庫芝居では綱太夫が抜け、紋下は染太夫のみで吉左衛門は三味線筆頭に座っている。同年の見立番付では単独で世話人に座る。弘化3年(1846年)は染太夫の巡業に同行。8月上旬伊勢古市芝居小家の番付では筆末。筆頭は三代目清七。同年の見立番付では東前頭6枚目。しかし秋の見立番付では行司となっている。弘化4年(1847年)正月兵庫定芝居では三味線筆頭。筆末が四代目友治郎。同年9月道頓堀竹田芝居でも三味線筆頭。上2枚目に初代團平がいる。 嘉永元年(1848年)の見立番付では東前頭2枚目(筆頭が初代清六)。同年8月の「三都太夫三味線人形改名録」には「辰三郎改 鶴澤吉左衛門」とある。しかし辰三郎を前名とするのはこの改名録のみである。同年の見立番付「てんぐ噺」には「音力はまたとあるまい秋津しま二代鑑は天下一なり竹本染太夫 鶴澤吉左衛門」と記されている。 嘉永2年(1849年)7月道頓堀若太夫芝居は五代目染太夫改竹本越前大掾藤原明郷の受領披露で、『赤松円心緑陣幕』「いのりの段 切」を語る越前大掾の太夫付に鶴澤吉左衛門がいる。同じく初代清八が『生写朝顔話』「奥さしきだん 大井川のだん」を語る初代大住太夫の太夫付となっている。同年9月兵庫定芝居でも越前大掾の太夫付となっている。 『染太夫一代記』によれば、同年9月に兵庫にいた四代目三二より鶴澤三二名跡を貰い受け、五代目鶴澤三二を襲名した。「このとき兵庫に芝居ありて、師匠越前大掾はじめ巴太夫、駒太夫出勤にて、則ちけふが初日なり。于時このたび兵庫において、鶴沢吉左衛門事鶴沢三二と改名致さるゝ。その元の三二はこの兵庫の出生にて、越前大掾並びに兵庫ならや仲人にてこの名前を貰ひ受け、吉左衛門にゆづられし。幸ひ当日名前譲り渡しの祝ひ日とて、元の三二が宅にて、ならや並ぴに大掾もろとも打ち寄り居られし事ゆゑ、梶太もこの地へ立ち寄りたる事幸ひ、名前譲りのお目出度の座並につらなり、無事に相済み、それより師匠大掾、梶太夫も同伴にて、ならや御宅へ召連れられまたもや酒宴、さまざま馳走になりて」同書の弘化元年(1844年)~同2年(1845年)の欄に「一、西宮素浄るり。一座有之。梶太夫・広作。熊次郎湊太夫・三二」とあり、西宮は兵庫であるから、この四代目鶴澤三二から三二名跡を譲られている。 嘉永3年(1850年)9月道頓堀竹田芝居『道中双六 乗掛合羽 伊賀越』で初代吉左衛門事五代目鶴澤三二を襲名。二代目豊竹古靱太夫(山城少掾)の番付書き込みに「初代吉左衛門五代三二ヲ相続ス越前大掾ノ合三味線也」とある。しかしこれは大坂での襲名披露であり、前述の通り前年に兵庫で襲名済である。 以降も、五代目鶴澤三二として相三味線の越前大掾が紋下を勤める芝居で筆末に座っている。筆頭は三代目清七。初代燕三が出座している場合には下2枚目に下がることもあった。 嘉永5年(1852年)正月四条道場かげゑ(影絵)の芝居で『新薄雪』「中の巻」竹ノ本越前 三味線鶴澤三二とある。2月のかげゑ(影絵)の芝居にも出座している。以降、越前大掾の芝居出座がなく、同様に鶴澤三二の出座も『義太夫年表近世篇』では確認できない。しかし見立番付には鶴澤三二の名があり前頭が多かったが、安政元年(1854年)の見立番付では西小結に昇格。関脇は初代清六。元治元年(1864年)の見立番付では西大関に昇格。以降見立番付からも名が消えている。没年等は不詳。 吉左衛門の名跡は初代清八の門弟が二代目を襲名している。また鶴澤蟻鳳の名跡も初代清八が一時期名乗っていたため、吉左衛門と蟻鳳の名跡を清八に譲っている。鶴澤三二の名跡は以降友治郎の系譜である豊吉・伝吉の系譜から六代目と七代目が出る事となったが、八代目三二は二代目吉左衛門の門弟から出ており、吉左衛門の系譜に鶴澤三二が戻ることとなった。
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五代目 (1970年 - 1979年)
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「リンカーン・コンチネンタル」の記事における「五代目 (1970年 - 1979年)」の解説
1970年型モデルとして5代目にあたるリンカーン・コンチネンタルが登場した。前年に発売されたマークIII(英語版)の成功を受け、リンカーンは1970年代に向けて9年間の生産を経ていたコンチネンタルの近代化を図った。1958-1960年型のリンカーンよりもホイールベースは短く、全幅もわずかに狭くなったが、5マイルバンパーが追加された事で、1977-1979年型のリンカーンはフォード・モーター・カンパニーが生産した自動車の中で最も長い車種となった。
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五代目(ごだいめ)
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五代目
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鶴澤小熊 ⇒ 鶴澤亀助(亀介) ⇒ 三代目鶴澤豊吉 ⇒ 五代目鶴澤伝吉 ⇒ 六代目鶴澤三二 五代目鶴澤友次郎門弟。 『増補浄瑠璃大系図』によれば、西京の出身で、幼名は小熊といった。初出座等詳らかではないが、『義太夫年表近世篇』では嘉永7年(1854年)閏7月博労町いなり境内北の門新席『五天竺』の番付に鶴澤小熊とあり、竹本房太夫を弾いている。この房太夫は後に三代目竹本寿太夫となる人で、同芝居では、二代目津賀太夫改竹本山城掾、二代目寿太夫改三代目竹本津賀太夫の大坂での襲名披露が行われている。同年10月因幡薬師境内『箱根霊験躄仇討』「餞別の段」で房太夫事三代目竹本寿太夫を弾く。このように竹本山城掾の一座に出座していた。 翌安政2年(1855年)京四条北側大芝居太夫 竹本長登太夫『伊賀越道中双六』他にて、小熊事鶴澤亀介(亀助)と改名。番付には二代目寿太夫事三代目竹本津賀太夫、房太夫事三代目竹本寿太夫とあることから、一連の山城掾、津賀太夫、寿太夫の襲名披露の中で亀助へ改名した。安政5年(1858年)頃から四代目竹本濱太夫(後の四代目津賀太夫)を弾く。この後も長く濱太夫を弾いていたが、濱太夫ともう一人を弾くこともあり、慶応2年(1866年)9月四条道場北の小家「三勝 酒屋の段」で初代竹本殿母太夫(後の六代目綱太夫)を弾いている。 師匠二代目鶴澤豊吉(後の五代目鶴澤友次郎)が元治元年(1864年)12月四条北側大芝居の素浄瑠璃興行にて二代目豊吉改三代目鶴澤伝吉を襲名した後、慶応2年(1866年)10月四条道場北ノ小家太夫 竹本山城掾『大江山酒吞童子』にて「頼光館の段」を語る豊竹三光斎を弾き、亀介改三代目鶴澤豊吉を襲名。三代目竹本津太夫(後の七代目綱太夫)を弾く鶴澤小熊もおり、後に師名の亀助を襲名する。以降は、濱太夫ではなく豊竹三光斎を弾いている。 慶応3年(1867年)6月四条道場芝居『木下蔭狭間合戦』の番付にも亀介事三代目鶴澤豊吉とあり、名代 宇治嘉太夫 太夫 六代目竹本染太夫の大芝居にての襲名披露が行われた。座組は山城掾、五代目春太夫、三代目津賀太夫、六代目竹本むら太夫(後の六代目政太夫)、三代目竹本津夫…他であり、師匠の五代目友次郎が三味線の筆頭となっている。同年以降は三代目津賀太夫を弾いている。明治改元以降も山城掾の一座に出座し、『義太夫年表明治篇』では道頓堀竹田芝居での出座が確認できる。 明治5年(1872年)10月京四条道場 宇治嘉太夫芝居にて三代目豊吉改五代目鶴澤伝吉を襲名。『絵本太功記』「尼ヶ崎の段 切」で三代目竹本津賀太夫を弾いた。同芝居では小熊改め二代目鶴澤亀助、大筆太夫改三代目竹本蟠龍軒等の襲名披露が行われている。六代目鶴澤三二の襲名披露は不詳だが、『増補浄瑠璃大系図』によれば、「後四代目豊吉へ伝吉を譲りて其身は元祖の大名を貰ひて又々改名して(七代目)鶴澤三二と成て出勤致す」とあり、弟弟子の鶴澤庄次郎は遅くとも明治6年(1874年)11月には四代目鶴澤豊吉を襲名しており(同月道頓堀竹田芝居『伊賀越え乗掛合羽』他に鶴澤豊吉の名前がある)、明治17年(1884年)4月に弟弟子の二代目友之助が五代目豊吉を襲名していることから、四代目鶴澤豊吉の七代目鶴澤伝吉の襲名は同年までに行われたことになり、五代目伝吉の六代目鶴澤三二の襲名披露も同様となる。 没年等は不詳。
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五代目
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五代目 竹澤 彌七(生年不詳 - 安政2年(1855年)) 泉州 堺の生まれ。はじめ四代目の門下で竹澤力造、のち二代目竹澤宗六を経て、天保6年(1835年)に五代目を襲名、そののち四代目竹澤權右衞門を襲名した。
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五代目
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竹本桐太夫 → 五代目竹本紋太夫 四代目(三代目竹本綱太夫)の門弟。 『増補浄瑠璃大系図』に「三代綱太夫門弟にて東京にて紋太夫と改彼地古老と成」とある。
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五代目(四代目とも)
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竹本濱子太夫 → 竹本文太夫 → 五代目竹本濱太夫(四代目とも) → 四代目竹本津太夫(三代目とも) 四代目の門弟。 四代目竹本津太夫欄参照
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五代目
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(生年不詳 - 元治元年(1864年)10月29日) 竹本文太夫 → 五代目竹本むら太夫 二代目(四代目竹本綱太夫)の門弟。西京の住人で通称を徳三郎といい、『増補浄瑠璃大系図』では天保13年(1842年)3月『木下蔭狭間合戦』「道三館の段 中」を初舞台とするが、天保12年(1841年)4月四条北側大芝居『五天竺』「釈迦誕生の段」に房太夫事竹本文太夫とあることから、初名を竹本房太夫といった可能性がある。 同様に『増補浄瑠璃大系図』では、五代目竹本むら太夫の襲名を嘉永6年(1853年)西京北側芝居『祇園祭礼信仰記』とするが、嘉永4年(1851年)3月改正「三都太夫三味線操改名録」に「文太夫 竹本むら太夫」とあり、同年5月改正新板「三都太夫三味線人形見競鑑」(見立番付)にも「東前頭 文太夫事竹本むら太夫」とあることから、同年には五代目竹本むら太夫を名乗っていたことが確認できる。同様に芝居番付では、翌嘉永5年(1852年)正月 清水町浜小家(大坂)『寿連理松』「湊町の段 切」文太夫改竹本むら太夫、同年8月 寺町道場南新小屋『新版歌祭文』「野崎村の段」文太夫事竹本むら太夫が確認できる。 元治元年(1864年)5月より甲州にて出勤の途中、府中にて病気となり、10月29日甲府にて死去。戒名は冬誉浄縁禅定門。
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五代目
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鶴澤安治郎(安次郎) ⇒ 初代鶴澤清八 ⇒ 五代目鶴澤蟻鳳 ⇒ 初代鶴澤清八 ⇒ 初代鶴澤叶 ⇒ 初代鶴澤清八 三代目鶴澤清七門弟。初代鶴澤清八欄参照
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五代目
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(詳細は九代目竹本綱太夫欄を参照) 昭和七年(1932年)~平成二十七年(2016年)大阪市出身。通称 北畠。「平成の織太夫」 竹本織の太夫 → 五代目竹本織太夫 → 九代目竹本綱太夫 → 九代目竹本源太夫 本名 尾崎忠男。祖父は七代目竹本源太夫、父は初代鶴澤藤蔵、義兄は七代目竹本住太夫、子息は二代目鶴澤藤蔵。 四代目竹本織太夫(八代目竹本綱太夫)門弟。 初名 竹本織の太夫、昭和三十八年(1963年)五代目竹本織太夫、平成八年(1996年)九代目竹本綱太夫、平成二十三年(2011年)九代目竹本源太夫を襲名。平成二十六年(2015年)七月引退。 重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章、旭日小綬章ほか受賞多数。 師の薫陶を受けた古典の継承とともに、現代音楽の作曲家の作品への出演をはじめ多分野で活躍した。 著書に『織大夫夜話―文楽へのいざない』(1988年)『文楽の家』(2011年) 当代の六代目竹本織太夫はインタビューの中で「平成の時代は、五代目竹本織太夫と七代目竹本住太夫という、二大巨頭の時代でした。2人が光り輝いていたんです。」 と語っている。
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五代目
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四代目芳次郎の長男・花柳寛(1931年-)。1967年に五代目芳次郎襲名、2007年に四代目花柳壽輔となる。
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五代目
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五代目 吉住 小三郎(明治41年(1908年)1月28日 - 昭和58年(1983年)1月16日) 東京の生まれ。四代目の長男。本名は吉住秀雄。大正13年(1924年)9月の長唄研精会で二代目吉住小太郎を襲名して初舞台。戦後は東京音楽学校で後進の指導と長唄の普及に力を注いだ。昭和38年(1963年)6月に五代目吉住小三郎を襲名。
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五代目
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竹本増太夫 ⇒ 竹本氏戸太夫 ⇒ 五代目竹本氏太夫 四代目氏太夫の門弟。後に四代目綱太夫の門弟。四代目綱太夫の「竹本綱太夫門弟見立角力」の東前頭でもある。 『増補浄瑠璃大系図』では「氏太夫高弟にて大坂上町の住人通称喜三郎といふなり」とあるため、増太夫を名乗っていたことが抜けているが、後述の通り増太夫から氏戸太夫となっている。 竹本増太夫の名は、天保4年(1833年)4月京寺町和泉式部境内の番付に見られるが、師氏太夫は出座していない。 天保6年(1835年)8月江戸大薩摩座『義経千本桜』「大序」を語る竹本増太夫の名があり、この芝居には師氏太夫も出ている。以降も、師氏太夫が出座する江戸の芝居に増太夫の名がある。この頃六代目染太夫の門弟にも増太夫がいるため、京大坂にも増太夫が出ている。 天保11年(1840年)正月稲荷社内東芝居太夫竹本重太夫で師氏太夫と共に帰坂。『契情小倉の色紙』「箱崎松原の段」を語る。4月同座夫竹本綱太夫の芝居で『酒吞童子語』「八瀬里の段 口」「頼光館の段 口」を語る。師氏太夫も一座している。以降も師に従う。同年の見立番付では東前頭。 しかし翌天保12年(1841年)正月稲荷社内東芝居『祇園祭礼信仰記』「女画師住家の段 口」を語り、淡路へ向かうと、『増補浄瑠璃大系図』の氏戸太夫の欄にあるが、登茂太夫の欄には「祇園祭礼信仰記大序勤此時女画師住家の口氏戸太夫役成しが淡路座へ約束有て行し故其替り役勤る」と、氏戸太夫がこの段を勤めずに代役したと記載がある。 天保13年(1842年)8月堀江市の側芝居で帰坂。『菅原伝授手習鑑』「喧嘩の段」を語る。以降も、師氏太夫と同座し端場を語る。 弘化2年(1845年)の見立番付「浪華太夫三味線町々評判大見立」で東前頭で〈まつすぐにかたるは家のゆづりうけあっばりなるおそ立柄〉氏戸太夫とある。この頃は、天保の改革の混乱期であるため、『義太夫年表近世篇』で出座が確認できないが、弘化3年(1846年)の見立番付では東前頭江戸竹本氏戸太夫とあるため、江戸へ下っている。弘化4年(1847年)3月甲府亀屋座の兄弟子五代目春太夫が紋下を勤める芝居に出座。役場は『菅原伝授手習鑑』「道明寺の段 次」「賀祝の段 切」で「下り 竹本氏戸太夫」とある。また、床頭取竹本氏戸太夫ともある。座元鶴澤勝七とあり、三味線筆頭も別書き出しで鶴澤勝七となっている。同年の見立番付では東前頭大坂竹本氏戸太夫となっている。 しかし弘化5年=嘉永元年(1848年)の見立番付には西前頭江戸竹本氏戸太夫とある。江戸で刊行された見立番付にも「江戸竹本氏戸太夫」とあることや、同年の「浄瑠理太夫三味線師第細見」に「竹本氏戸太夫 故人氏太夫門人始増太夫卜云先年師匠共二江戸へ下り其折柄より頼母敷思ひましたが此節二至リ殊外評判宜今堺町二住ス」とあるため、江戸にいたことは確定する。同年の「三都太夫三味線人形改名録」には増太夫改竹本氏戸太夫とある。同年師が没しているが、以降も江戸で出座した。 嘉永2年(1849年)4月江戸赤城社内で『絵合太平記」「中国水責の段」「嘉平次住家の段 口」を語る。この後、嘉永3年(1850年)の見立番付に西前頭江戸豊竹氏太夫とあり、嘉永4年(1851年)8月江戸両国の芝居に竹本氏太夫が出座していることから、この頃五代目氏太夫を江戸で襲名している。同芝居では『伊賀越道中双六』「政右衛門屋舗」を語る。「沼津」は小定太夫が語っており、後に二代目織太夫から六代目綱太夫となるその人である。 嘉永7年=安政元年(1854年)正月道頓堀法善寺境内弁慶席に出座。『朝顔日記』「宿屋の段 切」を語る。三味線は二代目徳太郎。続く同席の『仮名手本忠臣蔵』では「矢間喜内住家の段 切」を同じく二代目徳太郎の糸で語っている。3月まで同席に出座。5月の同席には出座せず。同年の見立番付では西前頭で「伊賀沼津豊竹氏太夫」とある二代目徳太郎。また別版の見立番付では「世話方 京竹本氏太夫」となっている。 安政5年(1858年)7月稲荷社内東小家『里見八犬伝』の番付に理太夫事竹本氏太夫と竹本氏太夫の披露が行われていることから、これまでに没したか。 『増補浄瑠璃大系図』は「師匠氏太夫死去の後師の名跡を譲受竹本氏太夫と名乗共芝居出勤も少く尤其頃は西京住居にて安政の始めに死去せられ」とある。氏戸太夫の二代目は同門である五代目春太夫の門弟の為太夫が襲名している。 以降の竹本氏太夫であるが、『増補浄瑠璃大系図』によれば、竹本山城掾の門弟で後に五代目春太夫の門弟となった竹本茂太夫が襲名したとも、前述の通り、竹本理太夫が襲名したとも、明治期には五代目春太夫の門弟で通称むぎわらの蛇という素人出身の養老太夫が襲名しており、混乱が見られる。
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五代目
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内海 鄭司(うつみ ていじ) 陴威窠斗五代目総長。普段は仲間思いの温厚な男だが、一旦キレると完全に我を見失い、長期間に亘って誰にも止められないほど凶暴になる。得意技は頭突き。愛車はケンメリ(ヨンメリ)と、恋人・飛鳥の形見である赤くペイントしたCBX。 中学時代から五島と並んで「将来広島のトップになる男」と目され、1979年、那須の誘いで幼馴染みのケンエーと3人で陴威窠斗に入った。1982年の四代目時代、渥美・荒木との三つ巴の五代目継承争い「一年戦争」の最中、渥美の謀略で飛鳥を殺され、報復で渥美を長期入院を余儀なくするほど叩きのめし、その勢いで荒木も同じように再起不能寸前まで打ちのめし、五代目総長の座に就いた。 1983年、三浦と中尾が盗難したCBXをギッチョが持っていたことでギッチョ軍団と諍いになり、それがきっかけでギッチョとの縁が生まれた。その後の廣島連合との抗争と「濁りの巣」でケンエー一派の裏切りを受け、ギッチョやガネの協力を得て一派を鎮圧。裏切りを受けてもなおケンエーを仲間として見捨てず、検挙に来た警官の銃弾からケンエーを庇い、この世を去った。 生前は「飛鳥のいない世界に未練は無い」と鎖国島に行くことが決定していた。ギッチョが心から慕い、敬語を使って接した唯一の人間だった。 那須 一夫(なす かずお) 五代目陴威窠斗副総長。愛車のワークス仕様のハコスカは、ボンネットにナスの絵があしらわれている。 中学時代に内海に負け、それ以来内海やケンエーと行動を共にするようになった。「濁りの巣」抗争ではケンエーの裏切りを受け最初に脱落、抗争終結後、内海が死んだことで気力を失い五代目を引退した。 1984年、島から脱出してきた三浦と中尾がタニケンの名前を騙って自分を呼びだしたことから、下畦を通じて陴威窠斗に集合をかけ、2人の確保に協力した。1990年には段野に負けて総長の座を追われ生活の荒みきった下畦を心配し、就職を世話しようとしている。 ケンエー / 雛石 顕映(ひないし けんえい) 五代目陴威窠斗幹部。雛石顕治の4歳違いの弟。愛車はケンメリ。 小学生のころは剣道を学んでおり、悪だくみの得意な兄と違い喧嘩が強いことで有名で、幼馴染みで同級生の内海に何度となく挑んでは敗北し続けていた。1979年、中学2年生の時、内海と三人で初代陴威窠斗に入らないかと那須に誘われ、最初は兄を破門したチームに入ることを嫌がっていたが、東がライバルの五島と共に廣島連合に入り、やがて連合の頂点に立つであろう五島の二番手として下剋上の機会を窺い続けると宣言、互いにチームの頂点に立った時にまた会おうと自分に持ちかけてきたことで野心が芽生え、陴威窠斗に入った。 五代目陴威窠斗では那須に次ぐナンバー3の地位になり、チームがまとまっているのはケンエーのおかげと内海と那須に評されていた。1983年、兄と同じく鎖国島行きが決定し、島入りの前に「雛石の血の力を証明する」として内海への反逆を決意。廣島連合との抗争に乗じて那須を襲撃し、直属の舎弟である金田とコンを率い、長期入院から復帰した荒木、極楽蝶四代目の三浦・中尾と共に「濁りの巣」抗争を引き起こした。最終的に内海とガネ、ギッチョ軍団に制圧され、その後踏み込んできた警察に改造空気銃を取って立ち向かい、実銃と勘違いして身を守ろうとした警官が拳銃を発砲。銃弾から身を呈してかばった内海は目の前でこの世を去り、自身はガネと共に検挙された。 鎖国島に入った後は兄・顕治率いる西側の一員となったが、親友だった内海を自分の野心のために殺してしまったことを激しく悔い、抗争には一切関わらず、医療知識を勉強しながら寄生族を支援するなどして「鬼」が平和に暮らせる国を作るために密かに尽力していた。1983年の鬼祭りでは、東に撃たれて脱落した顕治に代わって鬼祭りに参戦、寄生族を使った策略で花山と取引して祭の勝者となり、王様の地位を顕治に譲って自身は相談役の立場となった。 鬼祭り後、新人として入ってきた犬飼の姿に死んだ内海の面影を見出し、真清ら一部の東側幹部と友好関係を築き、新人による混乱を収めるために奔走。年末年始の保護者との面会で離島した隙に内田と榊原が島を支配した時には、捕虜になった東側幹部の世話を申し出て、瀕死の重傷を負ったアキラ達を治療して全員の命を救った。1984年の鬼祭りに乗じた脱出騒動には、自分は島に残るつもりながらも計画に協力。顕治・荒木と共に樋口のスタンガンで体を麻痺させられ、女の仇と顕治を狙う北丸蛍のマシンガンから顕治を庇い、平和な国を作る野望をギッチョに託してこの世を去った。 西側の一員だったため東側から敵視されていたが、犬飼を通じて真清やガネがその理念に共鳴、また捕虜の世話を積極的に行っていたことからやがて東側全体と仲間になり、最期には内海を殺したと激しく憎悪を向けていたギッチョからも慕われるようになっていた。 金田 勝一(かねだ かついち) 五代目陴威窠斗メンバー。年齢はギッチョらと同じ。左の首筋から顎にかけて大きな傷痕がある。ランボーナイフを常に携帯しており、またロケット花火や爆竹を改造して殺傷力を持たせ、爆弾として用いる。愛車はマッハIII (H1)。 父と7歳上の兄が薬物中毒になった母を見捨てて二人で逃げたため、幼いころは幻覚を見続ける母に虐待されながら育ち、首筋の傷はその時に母からつけられた。1976年、母親と共に死にかけていたところを危うくコンに救われ、以来再び父・兄と暮らすようになったが、所構わず暴れ回る問題児となったために広島中の小学校をたらい回しにされる。更に、自分の心を守るために母を実母でなく義母と思い込んでいたことを兄に指摘されて精神が破綻、1983年、中学2年生のころには、ギッチョ軍団をはじめあらゆる不良少年から標的にかけられるほど凶暴になっていた。そんな折に、仲間もなく一人で行動していることをケンエーに気に入られ拾われる形で五代目陴威窠斗の一員となり、またコンと再会し再び親友となったことで常に二人で行動するようになった。 廣島連合との抗争ではコンと共に癇癪玉と諍いを起こして吉弘に拉致されたが、その途中で癇癪玉がケンエーを見つけて乱闘を始め、その隙に吉弘を刺してケンエーと合流。「濁りの巣」でもケンエーの下について内海に反逆し、ケンエーと共にギッチョや内海に制圧された。その後鎖国島へ渡って西側の一員となり、1983年の鬼祭りでは雛石顕治の許可を得て花火を持ち出し、東側の幹部と西側を裏切った東の皆殺しを目論んだが、ギッチョを助けに島に来たコージらギッチョ軍団に倒された。西側が内田と榊原に乗っ取られ島が二人に支配された後もコンと共にケンエーにつき、自分は島に残るつもりながらも1984年の脱出計画に協力。コンが撃たれて死んだことでギッチョと共に暴走し、二人で運営のヤクザを殺戮して回った。1990年には、敵同士だったギッチョと仲間同士になり平穏な生活を送っている。 兄・みつおは『BADBOYS グレアー』の回想シーンに登場し、松尾にまつわる中学時代の因縁が語られている。 コン / 近藤 裕二(こんどう ゆうじ) 五代目陴威窠斗メンバー。子供のころはギッチョ軍団の一員だったが、中学生になって金田の相棒となって陴威窠斗に入り、ギッチョ達と敵対していた。愛車はZ400GP。コンチャンとも呼ばれる。 1976年、親に無理矢理入れられた少年野球チームの練習を抜け出して金田と親友になって遊びまわり、母親に殺されかけていた金田を救った。1979年、コージらから金田の話を聞いて白音まで会いに行った時に錯乱した金田に重傷を負わされ、右の首筋から顎にかけて消えない傷痕をつけられた。しかしその後も金田を親友と慕い、1983年に再会、以来常に行動を共にするようになった。 「濁りの巣」では金田と共にケンエーにつき、ギッチョ軍団から離れた理由をタニケンに聞かれ「ギッチョとコージがいる限り軍団では王様にはなれない」と答えていた。抗争後は金田と共に鎖国島へ渡って西側の一員となり、1983年の鬼祭りではンアに倒されて瀕死の重傷を負い、顔に大きな傷痕が残った。1984年の鬼祭りでケンエーの遺志を継いで金田と共に真清らの脱出に協力。ヤクザを組み伏せた時に腹部を撃たれて致命傷を負い、この世を去った。 1983年以来ギッチョと抗争を繰り広げていたが、それでも互いに友情が残っていたのか、金田だけでなくギッチョもその死を目の当たりにして暴走していた。 下畦 勉(しもうね つとむ) 陴威窠斗の古参メンバー。1979年の中学1年生の時点で初代の一員で、雛石顕治の花山襲撃に参加して鼻を折られた。1983年の五代目時代には小さなグループを持ち、「濁りの巣」では表立って抗争に加わらず、内海一派とケンエー一派の間を動き回っていた。 内海が死に幹部が全員引退した後六代目副総長となって力をつけ、1984年には七代目総長として陴威窠斗を広島最大のチームに成長させた。しかし1986年、陴威窠斗を乗っ取ろうとタイマンを挑んできた中学生・段野秀典に敗れ総長の座を追われる(『BADBOYS』)。七代目時代末期は求心力が皆無となっていため、チームから放逐された後舎弟はひとりも付いてこず、そのことが強いトラウマとなって1990年にも自身を苛み続け、生活は荒み鍛えこんでいた体も痩せ細り、那須に今後を心配されていた。
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五代目
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竹本多門太夫 → 五代目竹本寿太夫 四代目綱太夫の門弟である五代目竹本春太夫の門弟。師の没後は二代目竹本越路太夫(摂津大掾)の門弟。 明治8年(1875年)因講に加入し、文楽座へ出座。 明治22年(1889年)10月文楽座『神霊矢口渡』「渡し守頓兵衛の段 中」を語り多門太夫改五代目竹本寿太夫を襲名。 ※この芝居で後の豊竹山城少掾が竹本津葉芽太夫として初出座
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五代目
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文政5年(1822年) - 明治2年2月29日(1869年4月10日)。常磐津十世家元。九世家元・四代目文字太夫の養子。1836年15歳の時に家元の養子となり林之助を名乗る。1837年1月中村座「女扇初旭鶴」で養父・三代目小文字太夫が四代目文字太夫と名を改めた後、同年10〜11月四代目小文字太夫を襲名する。以後文字太夫のワキ語りとしてしばしば出勤、1840年9月市村座「吉埜山雪振事」で立語りとなり同年市村座顔見世番付で筆頭となる。1858年に五代目文字太夫を襲名したが、ほどなく養父・初代豊後大掾(四代目文字太夫)との確執が生じ家元家を離縁されてしまう。1861年に六代目兼太夫と改名した。青年期には八代目市川團十郎と美貌を競い合ったという。掛軸肖像画は花取勝松(鈴木勝松門人)作、九代目市川團十郎書。 代表曲:「高砂の松」「福島屋・十万億土(三世相錦繡文章)」
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五代目
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(生没年不詳) 豊竹百合太夫 → 五代目竹本文字太夫 → 五代目豊竹岡太夫 四代目の門弟。後に五代目竹本春太夫の門弟となり、師の前名竹本文字太夫を五代目として襲名。 本名竹本猶六。百合太夫は初代竹本大隅太夫の前名でもある。四代目岡太夫の門弟にて、初名を豊竹百合太夫という。大坂の出身で、四代目岡太夫の門弟であったが、師岡太夫が、東京に移るにあたり、五代目竹本春太夫の門弟となった。四代目岡太夫欄にある通り、四代目岡太夫にとって春太夫(代数外)は師匠であることの縁であると考えられる。初出座は明らかではないが、嘉永6年(1853年)深川八幡社内『花王草紙楓短笧』「通天橋訴訟の段」を語る豊竹百合太夫がいる。この芝居には師匠岡太夫も出演している。後、安政3年(1856年)7月大坂 新築地清水町浜『本町糸屋娘』「桂浜辺の段」を語っている。同年10月 いなり社内『岸姫松轡鑑』「鎌倉御殿の段」では師五代目竹本春太夫と同座している。師の前名である文字太夫を五代目として襲名した時期は明らかではないが、慶応元年(1865年)11月 北ノ新地芝居 太夫 竹本対馬太夫(後の五代目竹本綱太夫)『一谷嫩軍記』「林住家の段」を竹本百合太夫として語って以降は、『義太夫年表 近世篇』に百合太夫の名前はなく、翌慶応2年(1866年)正月 天満社内戎門『加賀見山旧錦絵』「鶴が岡の段」『岸姫松轡鑑』「兵衛館の段 口」を語る竹本文字太夫が確認できることから、これより五代目竹本文字太夫を名乗ったと考えられる。 同年4月 江戸薩摩座『妹背山婦女庭訓』「芝六住家の段 奥」「杉坂屋の段 口」を語る竹本文字太夫がいる一方、(この芝居で君太夫が岡太夫(代数外)を襲名する) 同じく4月 大坂座摩社内 太夫 竹本山城掾『八陣守護城』「毒酒の段 中」「淀城の段 奥」を語る竹本文字太夫がおり、同時期に江戸にも竹本文字太夫が存在した。 明治年間も 竹本山城掾(山四郎)の一座で活躍し、明治7年(1874年)6月年に師五代目竹本春太夫が初代豊澤團平と共に、文楽座を退座し、竹本山城掾(山四郎)の一座に移って以降は師弟で同座し、明治9年(1876年)6月大江橋席『伽羅先代萩』「御殿の段」同年10月『絵本太功記』「尼ヶ崎の段」では、文字太夫が中、春太夫が切を勤めている。明治12年(1879年)11月博労町稲荷北門定小門『菅原伝授手習鑑』「車引の段 桜丸」「天拝山の段」を語ったのを最後に、東京へ下る。『増補浄瑠璃大系図』では、「明治十年七月春太夫故人の後東京へ赴き彼地にて出勤の内元師匠岡太夫名前相続致すに相成」とあるように、東京にて五代目豊竹岡太夫を襲名している。前述の通り、君太夫が慶応2年(1866年)に岡太夫を襲名しているが、岡太夫の代数には数えられていない。そもそも君太夫がどういう経緯で岡太夫を襲名したのかも不明であり、四代目岡太夫が「播又の家名を相続し」竹本岡太夫から、豊竹岡太夫に改めたように、岡太夫の名跡をきちんと管理する人間の存在が考えられる。尚、この君太夫の岡太夫は、文字太夫が正式に五代目岡太夫を襲名して以降は、竹本政太夫を名乗っている。無論政太夫の代数にも数えられていない。 五代目岡太夫を襲名して後も、東京で出座し、明治17年(1884年)1月松島文楽座『絵本豊臣太閤記』「阿野注進の段」を語り、帰阪する。以降も明治19年(1886年)1月御霊文楽座『玉藻前旭袂』「班足大王蘭亭宮の段」まで大阪での出座が『義太夫年表 明治篇』で確認できるが、以降は没年も含め不明である。
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五代目
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(文政11年4月15日(1828年5月28日) - 明治34年(1901年)10月12日) 鶴澤広吉 ⇒ 二代目鶴澤九蔵 ⇒ 三代目代鶴澤勝右衛門 ⇒ 五代目鶴澤清七 二代目勝右衛門(初代九蔵)門弟。三代目清七の孫弟子。本名は浅田嘉七。『増補浄瑠璃大系図』は「土塔町の住人なり」としている。 天保12年(1841年)正月名古屋立花町常芝居の番付に鶴澤広吉の名がある。三味線筆頭は二代目代鶴澤豊吉(四代目鶴澤伝吉)。同年8月稲荷社内東芝居太夫竹本綱太夫『絵合太功記』他の番付に鶴澤広吉の名がある。筆末が祖父師匠の初代勝右衛門(三代目清七)である。下三枚目には師匠初代九造(九蔵)がいる。以降も祖父師匠三代目清七や師匠初代九蔵に従っている。 弘化2年(1845年)2月道頓堀竹田芝居『仮名手本忠臣蔵』で師初代九蔵が二代目鶴澤勝右衛門を襲名。番付に九蔵改鶴澤勝右衛門とある。山城少掾の番付書き込みに「三世清七ノ門人初代九造改二代鶴沢勝右衛門卜成是河堀の勝右衛門迚名高く乍残念若くて死去す中々之名弾手なりき」とある。広吉は下5枚目に座っている。 「弘化年中に師の名跡譲り受て改名致し鶴沢九蔵と成て出勤致し」と『増補浄瑠璃大系図』にあるように、弘化年中に師名の鶴澤九蔵の二代目を襲名している。確かに、弘化4年(1847年)正月兵庫定芝居『仮名手本忠臣蔵』の番付に下三枚目に鶴澤九蔵とある。筆頭は初代鶴澤吉左衛門。筆末は四代目鶴澤友治郎。2枚目に後に四代目清七となる三代目文駄がいる。同年4月の見立番付では西前頭に鶴澤広吉とあり、嘉永元年(1848年)6月の見立番付では西前頭に鶴澤九蔵とあり、同年の「三都太夫三味線人形改名録」に「広吉改 鶴澤九蔵」とあることから、嘉永改元後は、二代目九蔵が浸透していた。しかし、番付上は、鶴澤九造と表記されていることが多い。 嘉永6年(1853年)7月26日、師二代目鶴澤勝右衛門が清七を襲名することなく35歳で夭逝した。そのため、四代目清七は三代目清七の同門である三代目文駄が襲名し、後にこの二代目九蔵(三代目勝右衛門)に五代清七を襲名させることとなる。 安政2年(1855年)3月新築地清水町浜『伊賀越』他で二代目九蔵改三代目鶴澤勝右衛門を襲名。山城少掾の番付書き込みに「二代九造事三世勝右衛門卜改名後ニ五世清七トナル堂島ト云う」とある。しかし、嘉永7年(1854年)4月新築地清水町浜の番付に既に鶴澤九蔵とあるため、襲名自体はそれより以前に行われており、襲名披露がこの芝居となった。同年の見立番付では「東前頭 大坂九蔵事鶴澤勝右衛門」とある。以降も新築地清水町浜の文楽の芝居に出座している(筆頭は紋下の三代目長門太夫を弾く祖父師匠三代目清七)。 安政4年(1857年)祖父師匠三代目清七が没し、三代目長門太夫を新たに弾くことになった初代豊澤團平が三味線筆頭となり、勝右衛門は上2枚目に位置している。筆末は初代豊澤新左衛門。(後に四代目豊澤広助が筆頭、團平が筆末、新左衛門が下2枚目に下がっても勝右衛門は上2枚目)。同年11月道頓堀竹田芝居『仮名手本忠臣蔵』他では「喜内住家の段 切」を語る五代目豊竹湊太夫の太夫付となっている。 安政6年(1859年)7月稲荷社内東芝居では初代團平が病気休演したため、この芝居だけ三代目勝右衛門が三代目長門太夫を弾いた。 『増補浄瑠璃大系図』に「元治元年子年中勤事故有て退座致し何れへも出勤なく引込居られしが」とあり、番付上も元治元年(1864年)年10月いなり東小家『出世太平記』他の上2枚目を最後に、鶴澤勝右衛門の名が消える。 慶応3年(1867年)3月上旬徳島二けんや出口の芝居の三味線筆頭に鶴澤勝右衛門があるが、『義太夫年表近世篇』が註をつけるように慶応3年(1867年)ではない可能性や、地方公演のため、同名別人の可能性も排除できない。以降も、同年の見立番付では東西前頭に鶴澤勝右衛門の名があるが、芝居出座は確認できない。 明治18年(1885年)に叔父師匠の四代目清七が師二代目勝右衛門が名乗れなかった鶴澤清七の五代目を襲名。「明治十八年乙西冬に至りて四代目清七老年に及び大切なき名前なり其智因有て譲り渡さるヽ也鶴沢清七と成て披露致し幾久敷相続致さるヽ是五代目也」と『増補浄瑠璃大系図』にあり、襲名披露が行われたことは確認できるが、芝居番付では確認できない。 明治34年(1901年)10月12日没。享年74歳。『弥太夫日記』は10月5日没とする。 戒名:浅深院究竟日等信士。墓所は大阪市北区野崎町蓮華寺(堂島)。
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五代目
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鶴澤芳之助 ⇒ 五代目鶴澤弥三郎 本名:田中市松。明治23年(1890年)12月2日大阪市西区生まれ。三代目鶴澤清六の養子(長女婿)にして門弟。義弟に五代目鶴澤鶴太郎(三代目鶴澤清六の長男)。 明治39年(1906年)1月三代目鶴澤清六門弟となり、鶴澤芳之助を名乗る。同年4月御霊文楽座の番付に、鶴澤芳之介の名がある。以降、番付表記は鶴澤芳之介とするものもある。以降も御霊文楽座に出座。 大正3年(1914年)3月御霊文楽座で、養父三代目清六の甥である初代竹本静太夫(後の四代目竹本大隅太夫)の『仮名手本忠臣蔵』「裏門の段」を弾く。同年5月8日より3日間、三代目清六の故郷である静岡にて、清六父母追善興行を静岡入道館で行われ、参加。「古靱、静(四代目大隅太夫、三代目清六甥)、光、つばめ(八代目綱太夫)、い、清六、徳太郎(五代目徳太郎=四代目清六)、芳之助(五代目弥三郎、三代目清六養子)、浅造(四代目重造、三代目清六門弟)」と、『義太夫年表大正篇』にある。以降も、従兄弟同士の初代静太夫や師三代目清六のツレを弾いている。 大正7年(1918年)6月御霊文楽座『碁太平記白石噺』「逆井村与茂作住家の段 中」で初代竹本静太夫を弾く。劇評に「逆井村。棒鱈と思ってゐた静も音使ひに就ては可なり心得てゐるものと見えておさよの述懐の間にチョット味をやりました。糸の芳之助は徳太郎と共に清六門下の二俊才、後来恐るべき腕を持ってゐます」とある(五代目徳太郎=四代目清六と三代目清六は師弟関係にはない。四代目鶴澤清六欄参照)。 大正8年(1919年)1月御霊文楽座の番付で下5枚目となり、半沢に昇格。同年7月の巡業では二代目豊竹呂太夫を弾いている。大正9年(1920年)7月の巡業では初代竹本静太夫を弾く。大正11年(1922年)1月御霊文楽座『増補忠臣蔵』「本蔵下屋敷の段 切」の二代目古靱太夫を弾いていた師・養父三代目清六が風にて9日より休演したため、芳之助が代役する。師・養父三代目清六は19日に心筋梗塞により55歳で死去。病中「わしも大隅さんを弾かなんだら、もつと長生きできたんやが」と述懐していた。 「歿くなったのば大正十一年の一月十九日。一月興行の私の役は、「付け物」の「本蔵下屋敷」で、この時初めてあとへ「追い出し」―「両国橋勢揃」―が付きました。二日初日で、清六さんは風邪気味で九日から休演されましたが、これが弾いて貰い納めになりました」 大正13年(1924年)2月『八陣守護城』「毒酒の段 切」の二代目古靱太夫を弾いていた四代目清六が24,25日と休演したため、芳之助が代役する。 同年5月御霊文楽座より本澤に昇格。下3枚目。同年7月第3回向上会『仮名手本忠臣蔵』で壱の組「勘平切腹の段」で豊竹和泉太夫を、弐の組「判官切腹の段」で竹本鶴尾太夫を、それぞれ弾く。 大正14年(1925年)1月新京極文楽座『義経千本桜』「大物ヶ浦渡海屋の段 次」「小金吾討死の段 奥」で豊竹和泉太夫、「道行初音旅路」を弾く。同月同座『菅原伝授手習鑑』「茶筅酒の段」で豊竹和泉太夫を弾く。2月同座『平仮名盛衰記』「笹引の段」で豊竹和泉太夫を弾く。同月同座『碁太平記白石噺』「吉原揚屋の段 切」で豊竹和泉太夫を『桂川連理柵』「道行の段」で2枚目を弾く。 昭和改元後は長く三代目竹本相生太夫を弾く。 昭和8年(1933年)6月の六代目竹本土佐太夫一行の巡業では二代目豊竹つばめ太夫(八代目竹本綱太夫)を弾く。同年9月四ツ橋文楽座第2回文楽若手特別興行にて『艶容女舞衣』「酒屋の段」『双蝶々曲輪日記』「八幡里引窓の段」で二代目豊竹つばめ太夫(八代目竹本綱太夫)を弾き、好成績を挙げたとし、木谷蓬吟より記念品が贈呈された。同様に三代目竹本相生太夫・四代目鶴澤清二郎(初代藤蔵)もペアも受賞。 同年11月四ツ橋文楽座第3回文楽若手特別興行にても二代目豊竹つばめ太夫(八代目竹本綱太夫)を弾く。役場は『一谷嫩軍記』「陣屋の段」『敵討襤褸錦』「大晏寺堤の段」。 この「大晏寺堤の段」につき、八代目竹本綱太夫は『でんでん虫』に七代目野澤吉兵衛に稽古に行った際のエピソードが収録されている。「私に勉強会で「大晏寺」(敵討襤褸錦)という珍しい役がついたので三味線の芳之助さん(のちに彌三郎になって故人となりました)に相談して夙川へ行って稽古してもらおうと云い出して一緒にお伺いしたら「これは淡路町(六世友治郎師匠)へ行ったほうがよろしいで」と云うて下さいました。自分のほかにふさわしい師匠があれば虚心に推薦されるのです。」 以降も、若手公演で二代目豊竹つばめ太夫(八代目竹本綱太夫)を弾く。 昭和10年(1935年)10月四ツ橋文楽座『本朝廿四孝』「十種香より狐火の段」八重垣姫:四代目南部太夫、武田勝頼:二代目つばめ太夫、腰元濡衣:三代目呂太夫他の掛け合いのシンを勤め芳之助改五代目鶴澤弥三郎を襲名。 同月の御影公会堂での公演で『本朝廿四孝』「十種香の段」で竹本小春太夫(七代目土佐太夫)を弾き芳之助改五代目鶴澤弥三郎の披露をしている。翌11月の岡山劇場での巡業では竹本小春太夫(七代目土佐太夫)らの『壇浦兜軍記』「阿古屋琴責の段」を弾き芳之助改五代目鶴澤弥三郎の披露をしている。 昭和11年(1936年)1月四ツ橋文楽座『寿式三番叟』の3枚目(シンは初代鶴澤道八)が番付上で確認できる最後の出座。同年2月1日没。享年47歳。 新義座への参加に意欲的であり、「三味線の芳之肋(後の彌三郎)さんは病気入院中でありましたが、新聞で知っていたそうで「えらいことをやってくれたナ。わしも病気がなおったら追っかけてゆくデ」といってくれました。」と八代目竹本綱太夫は残している。その新義座は五代目弥三郎の命日である2月1日に正式に発足した。 大正年間にニットーレコードの収録に参加している。『近頃河原達引』「堀川猿回しの段」で二代目古靱太夫・三代目清六のツレ弾き。『壇浦兜軍記』二代目古靱太夫他・二代目豊澤新左衛門のツレ弾き。『双蝶々曲輪日記』「引窓の段」で二代目古靱太夫を弾いている。
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五代目
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二代目鶴澤福太郎 ⇒ 五代目鶴澤鶴太郎 本名:田中永太郎。明治43年(1910年)2月28日生まれ。三代目鶴澤清六の長男。 父三代目清六が大正11年(1922年)1月19日に没したため、同年、六代目鶴澤友治郎に入門し、父の本名にして幼名の福太郎を二代目として名乗る。 大正12年(1923年)2月御霊文楽座『伊賀越道行双六』「沼津里の段」で師六代目友治郎が津太夫を弾き、その胡弓を勤めている。しかし、番付の三味線欄に福太郎の名はない。 大正13年(1924年)新京極文楽座『伽羅先代萩』「堤伐の段」で琴を弾いている。大正15年(1926年)3月御霊文楽座の番付より三味線欄に鶴澤福太郎が確認できる。 昭和改元後も、若手会では役が付くものの、本公演ではツレ弾きや胡弓や琴での出演が多い。昭和9年(1934年)3月四ツ橋文楽座にて二代目福太郎改五代目鶴澤鶴太郎を襲名。近松門左衛門作『曽我五人兄弟』「大磯酒宴の段」の2枚目を弾いた。シンは師匠六代目友治郎。3枚目が父三代目清六の門弟四代目叶(二代目清八)、4枚目が義兄芳之助(五代目弥三郎)と一家一門による襲名披露となった。『義太夫年表昭和篇』で確認できる最後の出座は、昭和11年(1936年)9月四ツ橋文楽座『関取千両幟』「猪名川内の段」の胡弓。以降の出座や没年等は不詳。昭和45年(1970年)刊行の『義太夫年表大正篇』の人物索引の解説には「既に歿」とある。
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五代目
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鶴澤常吉 ⇒ 鶴澤小庄 ⇒ 二代目鶴澤友之助 ⇒ 五代目鶴澤豊吉 ⇒ 七代目鶴澤三二 本名:田村常吉。通称:田村歌。五代目鶴澤友次郎門弟。嘉永6年(1853年)京都市生まれ。 明治元年(1868年)7月鶴澤常吉で初出座。以降、文楽の芝居・松島文楽座に出座する。 明治2年(1869年)3月稲荷社内東芝居(文楽の芝居)で常吉改鶴澤小庄と改名。 明治6年(1873年)2月松島文楽座『義経千本桜』で小庄改二代目鶴澤友之助を襲名。 明治8年(1875年)3月まで松島文楽座に出座、以降は師匠五代目友次郎が出座する道頓堀竹田芝居へ移る。同年9月の道頓堀竹田芝居 太夫竹竹本春太夫の番付に鶴澤友之助が確認できる。 明治17年(1884年)4月松島文楽座で二代目友之助改五代目鶴澤豊吉を襲名。『國言詢音頭』「五人伐の段」で二代目長尾太夫を弾いた。 「此君帖」には明治21年七代目鶴澤三二を襲名とある。 明治27年(1894年)9月30日没。享年42歳。戒名:釋常楽。京都鳥辺山本寿寺。 一時初代豊澤團平の養子となっていた。六代目友次郎の三味線の手ほどきをした。実子に三代目鶴澤友之助。 「鶴澤豊吉ハ一時清水町團平師ノ/養子と成られし京都ノ通称田村歌と申五世友次郎/師ノ門人にて始め友之助と名乗り後ニ此二代長尾太夫ノ合/三味線となり阪地へ出座五代目豊吉を襲名其御人/で有後年七世三二を相続す明治廿七年九月三十日死/行年四十二当今の六世友次郎氏の手ほどきの/御師匠さんまた近い頃亡しました友之助の実父になり/ます」と豊竹山城少掾が記している。
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五代目
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(生没年不詳) 竹本芝(柴)太夫 → 七代目竹本紋太夫 → 竹本綱戸(登)太夫 → 七代目竹本紋太夫 → 竹本綱戸(登)太夫 → 初代竹本津島(対馬)太夫 → 五代目竹本綱太夫 本名:大坂屋喜兵衛。屋号は加賀屋。 越中富山の出身。四代目竹本綱太夫の門弟。天保3年(1832年)4月いなり境内の文楽の芝居『彦山権現誓助剱』の大序 奥を語り竹本芝太夫として初出座。その後も天保6年(1835年)頃まで出座を続けたが、淡路座への出勤のため、上方を後にしている。天保11年(1840年)帰阪し、同年正月 大坂稲荷社内東芝居『契情小倉の色紙』に竹本綱戸太夫として出座し、「鳴戸の段 次」「箱崎松原の段」を語っている。 綱戸(登)太夫襲名の時期は明らかではないが、同年3月刊行の見立番付「三ヶ津太夫三味線人形見立角力」に「東前頭 京 芝太夫 竹本綱登太夫」と記されていることから、遅くとも天保11年には綱戸(登)太夫を名乗っていたことがわかる。 しかし、同年正月刊行の見立番付「三都太夫三味線人形見競鑑」に西前頭 大坂 柴(芝)太夫事竹本紋太夫と記されており、芝(柴)太夫から竹本紋太夫を襲名したことがわかる。一方、前述の通り3月刊行の見立番付では芝太夫から綱登太夫とあることから、芝太夫の紋太夫襲名は認められていない。これは、江戸に六代目紋太夫が存命中であったためであり、芝太夫は、紋太夫を諦め、綱登(戸)太夫を名乗った。この綱戸(登)太夫の名前は、前述の正月刊行の見立番付では惣(総)後見の筆頭に「大阪 竹本綱戸太夫」と記されており、『義太夫年表近世篇』では出座の番付を見つけることが出来ないが、よほどの重鎮であったと推察され、紋太夫を諦めた芝太夫に綱戸太夫の名跡を譲ったものと思われる。竹本紋太夫は三代目竹本綱太夫の前名であり、綱登太夫も「綱太夫に登る太夫」と読めることから、強く竹本綱太夫への襲名に意欲を燃やしていたものと推察される(竹本濱太夫から竹本紋太夫と三代目綱太夫と同じ改名歴を誇った六代目紋太夫へのライバル意識も考えられる)。 天保12年(1841年)9月刊行の「三都太夫三味線人形改名附録」には「芝太夫改 竹本綱戸太夫」と記されており、紋太夫襲名はなかったことになっているが、綱太夫家所縁の竹本紋太夫名跡への思い断ちがたかったと見え、天保13年(1842年)8月大坂 北ノ新地芝居にて『播州皿屋敷』「鉄山屋敷の段」を竹本紋太夫として語り、七代目竹本紋太夫襲名を再び強行した。江戸の六代目紋太夫は、同年江戸 薩摩座7月29初日(8月4日初日とする史料あり)『菅原伝授手習鑑』「車争ひのだん 松王丸」「天拝山の段」を語っており、大坂と江戸に紋太夫が並立した。綱戸太夫の紋太夫は9月同座の『菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段」、『伊賀越道中双六』「岡崎の段」を紋太夫として語っているが、同じく江戸の紋太夫も9月同座『仮名手本忠臣蔵』で十段目を語っている。この並立がいつまで続いたのかは詳らかではないが、翌天保14年(1843年)3月以前刊行の見立番付『三ヶ津太夫三味線大見立相撲』「西前頭 江戸 竹本紋太夫」「西前頭 大坂 竹本綱戸太夫」と記されており、今回の紋太夫襲名も認められることはなかった。 しかし、同年5月京 四条北側芝居『木下蔭狭間合戦』「矢はぎ橋の段 奥」を江戸登り 竹本津島太夫として語っていることから、紋太夫襲名を強行した綱戸太夫は、江戸に下り、江戸の紋太夫(六代目紋太夫)と紋太夫名跡についての話を付け、竹本津島太夫と名を改めたと推察される。 同年3月刊行『三都太夫三味線人形改名附録』に「芝太夫事 綱戸太夫改 竹本津島太夫」とあり、紋太夫はなく、綱戸太夫から初代竹本津島(対馬)太夫ということで問題の決着を見たものと思われる。しかし、続く紋太夫は、五代目綱太夫の門弟から出ていることから、江戸の紋太夫との間で、紋太夫名跡を上方に戻すという約束があったとも考えられる。 また、嘉永元年(1848年)8月刊行「次第不同 三都太夫三味線操改名録」に「芝太夫 綱戸太夫 加太夫 竹本津島太夫 加賀や」とあり、綱戸太夫から加太夫を経て津島太夫を名乗った史料もあるが、天保14年(1843年)3月以後刊行の見立番付『三ヶ津太夫三味線人形大見立』に「東前頭 竹本加太夫」「東前頭 竹本綱戸太夫」と加太夫と綱戸太夫が同時に記載され、同年に津島太夫を名乗っていることからも、竹本加太夫を名乗ったとは考えづらく、唯一可能性があるとすれば、津島太夫として大坂に登る前に江戸で綱戸太夫から加太夫を名乗り、その後に津島太夫と名を改めた…場合であるが、前述の通り見立番付に「綱戸太夫改 竹本津島太夫」と記載がある。 竹本津島太夫と竹本対馬太夫で表記にゆらぎがあり、『義太夫年表近世篇』によれば、どちらの名前も番付で確認できるが、「対馬」が国号であり、国号使用の禁止により「津島」とした理由もあるが、紋太夫襲名を強行するほど綱太夫家(の名跡)に思い入れがあったと推察され、竹本津太夫や竹本津賀太夫のように「津」の字は二代目綱太夫の営んでいた「津國屋」に由来する綱太夫家にとって大切な文字であることから、津島太夫を名乗ったと考えられる。また、同時期に四代目竹本染太夫の門弟にも竹本対馬太夫がいたため、竹本津島太夫とした可能性もある。 弘化2年(1845年)刊行の『浪華太夫三味線町々評判大見立』に西前頭〈早ふ聞に行なされ面白い事じゃ ちゃつと壱岐〉津島太夫と記されている。 弘化5年=嘉永元年(1848年)刊行の見立番付「てんぐ噺」に「古ふても出してみなされ皿屋しき是は御家の宝物なり 竹本津島太夫 鶴澤重造」とあり、前述の七代目紋太夫襲名を強行した天保13年(1842年)8月大坂 北ノ新地芝居にて語っていた『播州皿屋敷』「鉄山屋敷の段」を当たり役としていた。また、鶴澤重造とあるように初代鶴澤重造を長く相三味線としていた。この初代重造と対馬太夫の間には、数々のエピソードが残っている。 二代目綱太夫場である『花上野誉碑』「志渡寺の段」に「十蔵、数馬は左右に別れ」という文章があるが、対馬太夫は右の方に頭や肩をかたげて語る癖が、一方、重造は左の方に頭や肩をかたげて弾く癖がそれぞれあったことから、二人を評し「重造対馬は左右にかたげ」と言われた。「祖爺初代重蔵師之永ラク相手方ヲ勤メラレタ事モ有マス其コンビ時代ニ面白話題ガ残ツテ有升 地口合ノアンドウニ重蔵對馬ハ左右ニ肩ゲトゲト云フノガ秀逸有リマシタ 由是ハ十八番物ノ花上野誉石碑志渡寺ノ段ノ奥デ 重造数馬両人ガ坊太郎ト立合所ノ文句ニ重造数馬ハ左右ニ別レト云フ文章ガ有リマシテ又對馬大夫師ハ右ノ方ニ頭ヲ肩向ケルクセ又重蔵師ハ左ノ方ニ頭ヲ肩向ケルクセガ有升タノデそこで重造つしまは左右ニかたげ」 また、二代目豊澤團平(当時九市)は元々初代鶴澤重造に入門したが、師匠重造は、明治2年(1869年)五代目竹本綱太夫を弾いている際に、綱太夫と揉め、三味線を下において楽屋へ飛び込み、それ以来芝居への出勤を断り、自宅で稽古を続けていたため、九市は芝居に出ることができなかった。そこで、師匠重造からの手紙を持ち、初代豊澤團平のところへ弟子入りしたエピソードがある。 慶応元年(1865年)9月大坂 天満芝居にて太夫 竹本対馬太夫と紋下となり、二代目綱太夫ゆかりの『箱根霊験躄仇討』「滝の段 切」を語っている。続く同年11月北ノ新地芝居でも紋下に座り、こちらも二代目綱太夫場の『勢州阿漕浦』「平次住家の段」を語っている。翌慶応2年(1866年)8月座摩社内では「太夫 竹本対馬太夫 豊竹若太夫」と六代目若太夫と共に紋下に座っている。 津島(対馬)太夫時代、同じ四代目綱太夫門弟である五代目春太夫と人気を争い、後に文楽座の三味線紋下となる五代目豊澤広助(松葉屋)が猿糸時代に津島(対馬)太夫を弾いていた。「摂津大掾師之師匠タル五世春太夫ト此對馬太夫ハ人気之競走ヲセラレシトノ事デ有升 松葉屋廣助師猿糸時代之弾テ居ラレタ太夫サンデ有升」 慶応4年=治元年(1868年)7月四条道場北ノ小家『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」にて対馬太夫改五代目竹本綱太夫を襲名。翌明治2年(1869年)御りやう(御霊)芝居3月『仮名手本忠臣蔵』、4月『五天竺』に「名代 高橋竹造 太夫 竹本綱太夫」として紋下に座り出座したが、その後、堂上方(公家)へ出入りし、公家侍となり名を瓜生隼人を改め、 その後、西陣辺りで風呂屋をしていたと伝わる。 『妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」大判事を当り役とし、生涯に6回勤め、内4回は五代目竹本春太夫が定高を勤めている。 その他にも、綱太夫代々の演物である『摂州合邦辻』「合邦内の段」『勢州阿漕浦』「平次住家の段」『伊賀越道中双六』「岡崎の段」『ひらかな盛衰記』「逆櫓の段」を得意とした他、『仮名手本忠臣蔵』「山科閑居の段」『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」『箱根霊験躄仇討』「滝の段」も度々語っている。 五代目綱太夫を「盛綱陣屋の段」で襲名した後も、『佐倉曙』「宗五郎内の段」『箱根霊験躄仇討』「滝の段」『五天竺』「長者館の段」『勢州阿漕浦』「平次住家の段」『関取二代鑑』「秋津嶋切腹の段」『本朝廿四孝』「勘助住家の段」『仮名手本忠臣蔵』「判官切腹の段」『花上野誉石碑』「志渡寺の段」等、歴代綱太夫の演物や紋下太夫に相応しい語り物を勤めている。
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五代目
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(安政3年(1856年)3月 - 明治32年(1899年)4月18日) 竹本小組太夫 → 四代目竹本和佐太夫 → 五代目竹本津賀太夫 本名は上田久兵衛。富山の生まれ。父が竹本組太夫の弟子で、若喜太夫。初代豊竹靱太夫、初代豊竹古靱太夫、五代目竹本住太夫、四代目竹本播磨太夫になどに師事する。小組太夫から四代目竹本和佐太夫を経て、東京に出て4代目竹本播磨太夫の門弟となり、明治19年(1886年)5月1日より東両国の井生村楼にて五代目竹本津賀太夫の襲名披露が行われた(襲名披露を明治18年とする資料もある)墓所は東京小石川の川講安寺。 豊竹山城少掾が十歳の時に、五代目津賀太夫に入門し、小津賀太夫を名乗り、子供太夫として寄席に出ていた。 「明治十一年十二月十王日、東京浅草馬道に銀蔵長男として生る。同十八年八歳にして東京在住竹本政子太夫に義太夫節の手ほどきを享け、傍ら鶴澤清道に稽古を享く。同二十年同じく在京の五世竹本津賀太夫の門に人り、竹本小津賀太夫と名乗り寄席に出演。」「当時私は竹本小津賀太夫と申して、子供太夫で寄席へ出てをりました。」「役者がいやで仕方がなかつたのも手伝つて、それからは私が太夫になりたいといつて肯かないもんで、しまひに父も傾いてくれまして、十歳の春、五代目竹本津賀太夫さんに弟子入りして、竹本小津賀太夫と名乗ることになりました。暫くして子供太夫で寄席へも出勤するやうになりました。……今戸の師匠はもうその頃には大阪へ移られて、東京にゐられなかつたやうにも思ひますが、記憶がさだかでありません。」「大阪へまゐる前に、小津賀太夫を名乗つて十一歳ではじめて高座へ出ました頃は、津賀太夫さんの木戸が三銭、私の歩合が一厘でした。」
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五代目
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(安永9年(1780年) - 天保10年6月22日(1840年7月20日)、または6月23日(7月21日)) 竹本琴太夫 → 三代目竹本重太夫 → 五代目竹本政太夫 通称:堺屋清七。 三代目竹本中太夫(岡島屋)の門弟となり、竹本琴太夫を名乗る。四代目竹本染太夫(石屋橋)の門弟となり、師匠の前名重太夫を三代目として34年間名乗り、天保11年(1840年)2月大坂稲荷社内東芝居『仮名手本忠臣蔵』「七段目 大星由良助」「九段目 山科の段 切」にて、五代目政太夫を襲名。同年5月西京四条南側芝居にても、『仮名手本忠臣蔵』「九段目 山科の段」で襲名披露が予定されていたが、病気により休演。同年6月23日、61歳で死去。 『増補浄瑠璃大系図』には「染太夫門弟と成て重太夫にて勤められしは凡三十四年の間なり 政太夫を成ての出勤は漸忠臣蔵一芝居とは実に惜しむべき事なり 生国魂精鎮社へ納めて 神号〔多智波奈乃香推神〕」とある。 墓所は下寺町遊行寺円成院。 『生写朝顔話』「宿屋の段」を初演し、重太夫風として今日まで伝わり、重太夫風をもって、太夫の風は打ち止めと伝わる。 実子は初代鶴澤才治。
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五代目
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幕末から明治にかけての人物で本姓は荒川。嘉永六年(1853年)頃から玉屋の名での作品が確認されている。明治21年(1888年)没。
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五代目
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1997年02月、図越利次(図越利一の実子)は、会津小鉄五代目に襲名した。 1998年12月、会津小鉄五代目から五代目会津小鉄会に改称した。
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五代目
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平成27年(2015年)11月、四代目浅野組舎弟頭・中岡豊は、五代目浅野組組長を襲名した。 平成29年(2017年)7月19日、六代目山口組最高幹部らが五代目浅野組本部を尋ね、これまでの後見および親戚付き合いを解消することを通達した。 平成31年(2019年)1月、浅野組は総裁制を導入し、中岡豊が新設された総裁へ、組長には五代目浅野組若頭・重政宜弘がそれぞれ就任した。
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五代目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 05:13 UTC 版)
「WORST (漫画)」の記事における「五代目」の解説
物語開始時点では新四天王勢力の中では唯一勢力図の変動がなかった。 武田 好誠(たけだ こうせい) かつての新四天王の1人。五代目武装戦線頭。「加地屋中」出身。龍信ら四代目引退後、3人しかいなかった武装を支えた。 五代目当時は加入したばかりだった将五は、拓海の武装勧誘時に好誠を「命預ける価値のある男」と評している。 四天王内では唯一、キングジョーとタイマンを張る(勝敗は不明)。 突然脳梗塞を発症し(父親も脳梗塞で他界しているため、遺伝的なものだと推測されている)、以降は点滴などで症状を誤魔化していたが、やがて頻繁に目眩を起こすようになり、周囲の説得で手術のために五代目武装を解散し療養する決意をする。鈴蘭のゼットン、鳳仙のキングジョーが見送りに来た。 その後治療も成功し療養を経て街に戻ってきており、鉄生の死後、柳、稲田と共に墓参りに来た。同時に来ていた四代目武装戦線副頭・村田十三、鮫島義一に挨拶をした。「WORST外伝 ドクロ」では鉄生とのタイマンが描かれたほか、九能秀臣ら三代目武装の被害者たちに自ら頭を下げて謝罪するなど器の大きさを見せている。 柳 臣次(やなぎ しんじ) 五代目武装戦線副頭。好誠の勧めで武装に入る。 好誠の脳梗塞発病を知り、独断で五代目の引退を決定する。拓海に武装入りを何度か勧め、自身の引退時にドクロ入りのライダースジャケットを託す。 鉄生の死後、好誠、稲田と共に墓参りに来た。 稲田 源次(いなだ げんじ) 五代目武装戦線メンバー。「加地屋中」出身。玄場と同じく好誠とは中学時代からの仲。本作では長い揉み上げが特徴だが、中学時代は坊主頭だった。鉄生いわく「鬼」、「ドケチ」。だが、意外と涙もろく五代目の引退時には涙を流していた。 鉄生の死後、好誠、柳と共に墓参りに来た。 玄場 寿(げんば ひさし) 五代目武装戦線メンバー。「加地屋中」出身。好誠とは中学時代からの仲。 甲斐 泰典(かい やすのり) 五代目武装戦線メンバー。中学卒業後、清掃会社に就職したが職場でのいじめに対して憤慨し解雇される。その後、無職不良少年グループのリーダー的な役割をしていたが、行き過ぎた行為によって黒焚、鳳仙、鈴蘭、武装の全てから目を付けられ、最後のチャンスとして与えられた旧友の柳による説得も柳を裏切ったために好誠にボコボコにされ、少年院に入る。 出所後に柳の勧めで武装入り。そのこともあり好誠に恩義を感じており、柳が独断で五代目武装解散を決めたときも怒りをあらわにし、好誠を連れて説明してもらうように詰め寄っていた。その後、鉄生と清広のタイマンを見届け。将太に後を託す。 川地 幸吉(かわじ こうきち) 五代目武装戦線メンバー。坊主頭。好戦的な性格で、かつての甲斐の仲間を問答無用に殴り飛ばした。 室田 賢三(むろた けんぞう) 五代目武装戦線メンバー。当初は黒髪で、解散時には金髪。カレー味のカップうどんが大好物で、よく片手で持ち歩いている。常にサングラスをかけている。 鈴川 信之介(すずかわ しんのすけ) 五代目武装戦線メンバー。常にサングラスをかけている。当初は帽子を被っていた。秀吉と一触即発の雰囲気になったことがある。
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五代目
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武田 好誠(たけだ こうせい)(声: - / 置鮎龍太郎) 五代目武装戦線頭。『新四天王』の一人。左目の辺りに傷痕がある。加地屋中出身。 中学1年の時に、当時加地屋中の頭だった村田十三に喧嘩を挑み、その壮絶な戦いから東地区で知らない者はいない存在となった。村田を慕って四代目武装戦線に見習いとして入り、後に五代目を襲名する。 稲田 源次(いなだ げんじ) 五代目武装戦線創設メンバー。加地屋中出身。口元に傷痕がある。好誠、玄場とは中学時代からの親友で、玄場と共に四代目武装戦線に入り、後に五代目メンバーとなった。 玄場 寿(げんば ひさし) 五代目武装戦線創設メンバー。加地屋中出身。常にサングラスをかけている。好誠、源次とは中学時代からの親友で、源次と共に四代目武装戦線に入り、後に五代目メンバーとなった。 柳 臣次(やなぎ しんじ) 五代目武装戦線・七番目のメンバー。好誠からスカウトされて武装入りした唯一の人物で、後に副頭となる。参謀的な立場で、本作から番外編を経て続編『WORST』に至るまで、劇中で喧嘩をするシーンは一度もなかった。 川地 幸吉(かわじ こうきち) 五代目武装戦線メンバー。坊主頭。好戦的な性格をしている。 室田 賢三(むろた けんぞう) 五代目武装戦線メンバー。カレー味のカップうどんが大好物。 鈴川 信之助(すずかわ しんのすけ) 五代目武装戦線メンバー。武装戦線内では珍しく、カジュアルな服装をしている。 甲斐 泰典(かい やすのり) 柳の幼馴染。中学卒業後、進学せずに就職するも、職場でトラブルを起こし逃亡。数人の無職少年と共に恐喝などを繰り返し、鈴蘭1年生、黒焚連合、鳳仙、五代目武装戦線に追われていた。軍司に一方的に叩きのめされたことに逆上し、たまたま出くわした玄場を襲撃、説得にやってきた柳にも襲いかかったことから好誠の逆鱗に触れ、完膚なきまでに叩きのめされた。 その後、自ら警察に出頭して少年院に送致され、退院後柳の勧めで武装戦線十二番目のメンバーとなる。
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五代目
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「金田一少年の事件簿 (テレビドラマ)」の記事における「五代目」の解説
放送回放送日サブタイトル脚本演出視聴率File01 2022年4月24日 学園七不思議殺人事件 川邊優子 木村ひさし 7.8% File02-1 5月08日 聖恋島殺人事件 前編 大石哲也 6.2% File02-2 5月15日 聖恋島殺人事件 後編 6.7% File03 5月22日 白蛇蔵殺人事件 川邊優子 丸谷俊平 6.1% File04 5月29日 トイレの花子さん殺人事件 猪股隆一 5.7% File05–1 6月05日 金田一少年の殺人 川邊優子 丸谷俊平 5.5% File05–2 6月12日 金田一少年の殺人 解決編 平均視聴率 %(視聴率は関東地区・ビデオリサーチ社調べ) 第2話「聖恋島殺人事件(前編)」は5月1日に放送する予定だったが、4月23日に発生した知床遊覧船沈没事故を受けて5月8日への延期が日本テレビより発表され、代わりに第2シリーズの「悪魔組曲殺人事件」を再編集する形で放送した。主な編集箇所はエンディングテーマのカット。その穴埋めとして「金田一 meets 金田一 堂本剛が道枝にリモートドッキリ」という、初代金田一一役の堂本剛と5代目金田一一役の道枝がリモート対談を行う企画が放送された。また、スポンサーの一社であるミュゼプラチナムがACジャパンに差し替えられた。
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