てらこ‐や【寺子屋/寺小屋】
寺子屋 (てらこや)
寺子屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 08:01 UTC 版)
寺子屋(てらこや)とは、江戸時代の上方において、寺院で手習師匠が町人の子弟に読み書き・計算等を教えた学問施設。
- ^ 文部省編『日本教育史資料〔7〕』(文部省、1889-1892年)4頁。「江戸之頃ハ青蓮院入木道並御家流筆学所或ハ幼童筆学所何某又ハ何堂等之掛札相見申候此等ハ中興数々之流名起リ候ヨリ之儀ニモ可有之ト覚申候人別帳ニハ手跡指南又ハ筆道指南何某ト認候様覚申候其他近在共手習師匠ト相唱上方筋ニハ寺子屋ト稱候趣承リ申候右ハ最寄寺院ニテ多ク就學致シ候故之由ニ御座候」
- ^ 『改訂 新潮国語辞典 -現代語・古語-』(株式会社新潮社、監修者:久松潜一、編集者:山田俊雄・築島裕・小林芳規。1978年10月30日 改訂第6刷発行)p.1325には、「てらこ【寺子】寺子屋に通う子供。〔夏山雑談〕-や【-屋・寺小屋】江戸時代、子供に読書・習字などを教えた施設。〔菅原伝授手習鑑一〕」と記載されている。
- ^ 山下知 子 (2013年5月8日). “「寺小屋」は正答? 愛知○、大分× 公立高入試”. 朝日新聞Digital (朝日新聞社) 2013年5月8日閲覧。
- ^ ただし、それ以前の奈良時代や平安時代に民間の学問施設が全くなかった訳ではない。平安時代中期に書かれた『叡山大師伝』(最澄の伝記)には「村邑小学」という村の子供が通った学問施設が登場し、また考古学の進歩によってこの時期に作られた墨書土器も出土していることから、民衆全てが文字を知らなかったとは考えにくい。久木幸男は戸籍作成や班田収授などを実施して律令国家を成立させるために必要な人数を元にして、古代日本には最低でも官民合わせて3.7-7.4%の識字率が存在したと算定している(久木幸男『日本古代学校の研究』(1990年、玉川大学出版部) ISBN 4-4720-7981-X)。ただし、古代の学問の指南には不明点が多く、寺子屋の発生との関連性が不明である。
- ^ “四 小学校の普及と教育状況”. 文部科学省. 2020年3月15日閲覧。
- ^ 日本最初の女性教師と言われる黒澤止幾の前身は寺子屋の師匠であった。また学制発布後の数年間も小学校として使用された、彼女の寺子屋の建物が2010年時点で茨城県内に現存している。
- ^ 『日本のもと 学校』45頁。
- ^ a b c “日本の学校はなぜ4月に新しい学年がスタートするのか? 諸外国はどうか?”. ニッセイ基礎研究所. 2020年11月30日閲覧。
- ^ “一 幕末期の教育:文部科学省”. 文部科学省. 2017年1月14日閲覧。
- ^ 石川英輔『大江戸生活事情』(講談社文庫、1997年)
- ^ “西洋古版本の手ほどき 2011 No.7”. 2018年3月31日閲覧。
- ^ “「ユネスコ世界寺子屋運動30周年について」新聞掲載されました”. 公益社団法人日本ユネスコ協会連盟 (2019年5月27日). 2020年3月15日閲覧。
- ^ “民間ユネスコ活動/公益社団法人日本ユネスコ協会連盟”. 文部科学省. 2020年3月15日閲覧。
寺子屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 07:48 UTC 版)
田原藩は幕末から明治初年にかけて仮校舎として寺院に郷校を設立した。田原の龍門寺、野田の法華寺、浦の西光院に加え、赤羽根の金能寺(厳王寺)にも寺子屋が開設された。
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寺子屋
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朽木 冬吾(くちき とうご) 本作の主人公で矢野目藩の脱藩浪人。荒れ寺で寺子屋を開く。 雲雀(ひばり) 朽木の寺子屋に通う寺子(寺子屋で学ぶ子ども)。 母の死後、腕利きの板木職人だった父・辰五郎が何をするにも億劫になり、酒浸りになった挙句、盗みを働き、遠島の刑となり、親戚筋に引き取り手も現れず、朽木を頼る。 小鉄、大介(こてつ、だいすけ) 朽木の寺子。 竜二 雲雀らと親しくしていたが、別の町へ引っ越してから疎遠になっていた。朽木の寺子となり、再び仲良くするようになる。
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寺子屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 21:59 UTC 版)
安政年中、本寺宝仙寺から智観比丘尼(ちかんびくに)が入寺(比丘尼とは尼僧のこと)。智観比丘尼は、金剛院へ村の子供たちを集め、この辺りではまだめずらしかった寺子屋をはじめ、1859年(安政6年)に亡くなるまで、子供たちに礼儀作法や読み書きを教えた。当地における庶民教育の創始者と言える。それを記念し、金剛院には智観比丘尼の功績を称える碑が建立されている。
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