奥之院とは? わかりやすく解説

奥之院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 17:06 UTC 版)

金剛峯寺」の記事における「奥之院」の解説

表記は「奥の院」「奥院」などとされる場合もある。寺院群の東端にある奥之院入り口一の橋から中の橋経て御廟まで、約2キロにわたる参道墓域が続く。日本には古来から川を、この世あの世の境とする習わしがあり、橋を渡る事であの世へ渡るとされ、また川を渡る事で穢れを落とすと考えられていた。奥之院では3本川を渡る三重構成となっており、これら川と橋を渡る事で仏の浄土聖地)へ至ることができるとされている。中世以降高野聖による勧進納骨勧めにより参道沿いには約20基を超すともいわれている石塔供養塔墓碑歌碑など)が立ち並ぶ御廟橋を渡る空海入定の地とされる聖地となる。一番奥に空海が今も瞑想しているとされる御廟があり、その手前に信者供えた無数の灯明ゆらめく燈篭堂がある。空海62歳の時、座禅組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠悟り世界入り、今も高野山奥之院で生きている信じられている入定信仰があり「死去」「入寂」「寂滅」などといわず入定」というのはそのためである。 毎年8月13日に奥之院で萬燈供養会が開催され一の橋から奥之院までの約2kmの参道一般参拝者によって約10万本のローソクに灯をともし、先祖や奥之院に眠る御霊供養する高野山ろうそく祭り催されている。 一の橋 - 大殿川(おどがわ)にかかるで、高野山でも特に聖なる地他界)である奥之院への入り口であるため、僧侶は三回礼拝をし渡っている。ここより御廟まで約2kmの参道が続く。 中の橋 - 中間地点にある金の川にかかるで、正式名称は「手水」。この名は、ここが禊の場であったことに由来する橋を渡るとすぐに、汗かき地蔵堂姿見井戸があり、井戸覗き込み自身の姿が水面に写らなければ3年以内命を落とすもしくは写った姿が薄い場合寿命が短いと伝わる。また、汗かき地蔵は、人々罪業一身背負い代わりに地獄の業火の苦を受けているため汗をかいていると伝わる。地蔵石像のため表面冷たく、特に湿度の高い日に露が付きやすく(窓ガラスに露がつく原理と同じ)、地蔵表面水滴がついたり、よだれ掛け湿り、まるで汗をかいているように見えことがある。他に付近参道沿いに、四国八十八箇所写し石仏、数取地蔵化粧地蔵仲良し地蔵覚鑁坂、禅尼上智碑が点在している。 御廟 - 玉川にかかる通称無明」。36橋板全体1枚とした37で、金剛界37尊を表す。ここに掛かったのは平安時代後期考えられており、この川は特に神聖とされ、掛かるまでは川に浸かりながら渡ることで、手足清め御廟参ったと伝わる。1124年天治元年)に鳥羽上皇参詣したおりに、すでに掛かっていたが、わざわざ川で足をすすいだと伝わる。 水向地蔵 - 御廟手前にあり玉川を背に15尊が立つ。水向場の15体の内の1体不動明王1643年作。 奥院護摩堂 - 不動明王毘沙門天大師像を祀る御供所 - お大師様への食事供え物準備する場所で大黒天祀る経木求めたり納経をしてもらう所でもある。大師食事供える儀式の事を「生身供」とよび、朝食午前6時)、昼食午前10時半)の1日2回供えられる。現在では、パスタなどの洋風食事供えることもあるが、料理はすべて高野山開創以来の禁である肉、使用しない精進料理となっている。食事供える前に御供所の脇の「嘗試地蔵(あじみじぞう)」に供え地蔵味見をしてから御廟大師供えられるまた、空海快適に過ごせるように、食事以外にも夏は虫除け団扇、冬は火鉢なども供えられる頌徳殿 - 1915年大正4年建立処で無料休憩所英霊殿 奥院経蔵 - 石田三成により慶長4年1599年建立重要文化財)。弘法大師御廟向かって右にあり、扁額石田三成の銘がある。裏面には木食応其の銘があり、建立に関わったと考えられている。本尊文殊菩薩騎獅像。八角形回転式輪蔵高麗版一切経6285帖(重要文化財)が納められている。 灯籠堂 - 現在の堂は1964年昭和39年建立堂内に「消えずの火」とよばれる1000年近く燃え続ける火があり、一つは祈親上人奉じた「持経灯(祈親灯)」、もう一つは、白河上皇奉じた「白河灯」。また全国から奉納され多く灯籠天井灯り廻向祈祷受けられるまた、灯籠堂地下には入定する空海のいちばん近くまで行ける法場がある。そして、灯籠堂の裏中央には御廟参拝する場所があり、ここに来た全ての人々はここで祈り捧げ読経する。その左側方に納骨堂右側方に経蔵重要文化財)、東側増えた灯籠納めるための記念灯籠堂建ち御廟から入って左側小さな祠には弥勒石入っていて持ち上げることができるとご利益があると伝わる。 弘法大師御廟 - 空海入定留身の地。檜皮葺三間四面宝形造ほうぎょうづくり)の堂宇正面唐戸よばれる扉がある。御廟瑞垣みずがき)に囲われている。入定塚は石室小石積まれ形状で、御廟の裏側、北西壁面下部には直径20の穴が設けられている。衆生救済のために、各地顕現される空海御霊出入り口とされる。この入定塚の形状は、空海弟子観心寺にある実恵道興大師御廟真言宗中興の祖といわれる覚鑁(興教大師)の根来寺にある御廟も同様である。また近畿地方瀬戸内沿岸社殿にも同様のものがあり、穴はご神体御霊出入り口となっている。御廟東側には、二社の社祠がある。いずれも檜皮葺一間社春日造で、東北側に丹生明神高野山地主神)、その南側高野明神高野山開創最初に勧請)、西側には白髭稲荷大明神小祠奉祀されている。弘仁10年823年)に嵯峨天皇より、東寺下賜されたときに「密教国土安泰」を稲荷大明神契約されたという伝承稲荷契約事」(いなりけいやくのこと)があり、真言宗寺院では、守護神鎮守神として「稲荷大明神」を祀ることが多い。御廟西側大杉の穴に住む白狐霊験談が「紀伊続風土記」にあることから、「白狐信仰」と「稲荷契約事」の伝承結びつき明治時代神格化され白髭稲荷大明神として奉祀されたと推察される。 灯籠堂 御廟の裏には36梵字刻まれている 水向地蔵15奥院護摩堂御供所 頌徳殿 英霊殿 中汗かき地蔵 化粧地蔵 毎年8月13日に奥之院参道行われるろうそく祭り 毎年8月13日に奥之院参道行われるろうそく祭り

※この「奥之院」の解説は、「金剛峯寺」の解説の一部です。
「奥之院」を含む「金剛峯寺」の記事については、「金剛峯寺」の概要を参照ください。


奥之院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 14:52 UTC 版)

圓教寺 (姫路市)」の記事における「奥之院」の解説

開山堂重要文化財) - 宝形造方形造)、本瓦葺桁行5間、梁間6間。開山性空祀る。寺記によれば性空没した寛弘4年1007年)、性空高弟・延照が創建したとするが、現在の堂は寛文11年1671年)に再建されたものである開山堂には、奥之院開山堂御朱印がもらえる納経所がある。木造性空坐像重要文化財) - 開山堂本尊として厨子内に安置像高89.6 cm。『性空上人伝記遺続集所載記録によれば、本像は弘安9年1286年)に焼失した旧像に代わり正応元年1288年)に慶快が作ったのである。旧像の像内にあった瑠璃壺に納められ性空遺骨焼け残ったので、新像にあらため納入されたという。2008年平成20年)、奈良国立博物館によるエックス線撮影調査により、本像の頭部内には、所伝どおり遺骨納入され瑠璃壺が納められていることが判明した。また翌年2009年平成21年6月解体修理中の開山堂須弥壇下から、石櫃五輪塔夥しい数の経石発見され石櫃内に分骨された性空遺骨発見された。蔵骨器納めた桐箱に「性空御真骨」の文字がある。御真骨の分骨は、弘安9年1286年)の火災の時で、一部は慶快作性空像の頭部に、残り須弥壇下に納めた。さらに石櫃の下には御遺灰が埋納されていることが記されている。なお、この分骨のことは一切記録がなく、2010年平成22年4月発表された。これらのことから彌勒寺亡くなった性空はこの地で荼毘付されとされる性空上人坐像 - 1998年平成10年)、塔頭仙岳院土蔵から発見されたもので、本尊納める厨子の手前に安置されている。一木造像高78.0 cm11世紀初頭の作とされる。県指定文化財。 伝・左甚五郎作の力士像 - 開山堂軒下の三隅にある3体。1体重さに耐えかね逃げ出したという伝承がある。 護法乙天社重要文化財) - 開山堂右前若天社2棟並ぶ。1間、社隅木春日造社殿檜皮葺ひわだぶき)。永禄2年1559年建立。乙天・若天は、性空守護し護法童子とされ、それぞれ不動明王毘沙門天化身とされる護法若天社重要文化財) - 開山堂右前乙天社2棟並ぶ。1間、社隅木春日造社殿檜皮葺永禄2年1559年建立鳥居 2基(重要文化財) - 護法各社前に寛文年間1661年 - 1672年)に建立され石造明神鳥居がある。 護法拝殿重要文化財)- 切妻造本瓦葺桁行正面)7間、梁間側面)2間の懸造細長い建物。「弁慶学問所」として知られる天正17年1589年建立1962年昭和37年)に解体修理された。勧学会はここで行われる護法両社の乙天若天護法童子像 (秘仏開山堂参籠満行の行者だけが尊像拝することができる) が2021年新造された。開眼法要にあたり一般に公開された。佛師渡邊勢山の作。 不動堂 - 延宝年間1673年 - 1681年)に建立明王院乙護法祀る元禄10年1697年)、姫路城主・松平直矩により修理され大経所を合祀。堂は山内唯一の丹塗りで、俗に赤堂と称されていた。1967年昭和42年)の暴風雨による土石流全壊し1976年昭和51年)に再建された。 和泉式部歌塚 - 天福元年1233年)造の宝篋印塔ほうきょういんとう)。開山堂の横にある。元は西坂参道文殊堂あたりにあったもの。

※この「奥之院」の解説は、「圓教寺 (姫路市)」の解説の一部です。
「奥之院」を含む「圓教寺 (姫路市)」の記事については、「圓教寺 (姫路市)」の概要を参照ください。


奥之院(北山本山寺)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:41 UTC 版)

神峯山寺」の記事における「奥之院(北山本山寺)」の解説

現在の神峯山寺には奥之院は存在せず北山本山寺がかつての奥之院「霊雲院」にあたる。本尊として毘沙門天重要文化財)を安置

※この「奥之院(北山本山寺)」の解説は、「神峯山寺」の解説の一部です。
「奥之院(北山本山寺)」を含む「神峯山寺」の記事については、「神峯山寺」の概要を参照ください。


奥之院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 08:39 UTC 版)

小鎚神社」の記事における「奥之院」の解説

創建の地とされる新山高原には小鎚神社奥之院が存在するが、この場所が創建時正確な位置であるかは定かでない石灯籠 境内にあるモミ 新山高原にある奥之院

※この「奥之院」の解説は、「小鎚神社」の解説の一部です。
「奥之院」を含む「小鎚神社」の記事については、「小鎚神社」の概要を参照ください。


奥之院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 05:20 UTC 版)

浄瑠璃寺」の記事における「奥之院」の解説

山門から徒歩15分ほど山道下った谷合に奥之院がある。昔の行場であったと伝わる。斜面上方砂岩の滝となっている岩面に、瑠璃不動磨崖仏永仁4年)が残るが、上半身剥落し、上部下半身一段下に上半身がある。 浄瑠璃寺奥之院(2022年5月29日清掃活動直後様子前景。) 浄瑠璃寺奥之院(2022年5月29日清掃活動直後様子。上から。) 浄瑠璃寺奥之院の瑠璃不動磨崖仏上半身浄瑠璃寺奥之院の瑠璃不動磨崖仏上半身近くから) 浄瑠璃寺奥之院瑠璃不動磨崖仏像容ヒントを白い線で加筆浄瑠璃寺奥之院瑠璃不動磨崖仏下半身前に剥落した上半身ずり落ちている) 落石荒れた浄瑠璃寺奥之院(2020年2月様子手前には、丸彫不動明王石仏立っている。) 落石荒れた浄瑠璃寺奥之院(2020年6月様子手前には、丸彫不動明王石仏倒れていた。)

※この「奥之院」の解説は、「浄瑠璃寺」の解説の一部です。
「奥之院」を含む「浄瑠璃寺」の記事については、「浄瑠璃寺」の概要を参照ください。


奥之院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:09 UTC 版)

伊予国分寺」の記事における「奥之院」の解説

光蔵寺 推古天皇10年602年国守小千益躬(おちますみ)が開基し、開山は都の僧・日羅と伝わる。本尊薬師瑠璃光如来。小千が大病かかったとき、当地日羅薬師如来の法を修し回復したという、そこで当地に小千の氏寺造ったという。

※この「奥之院」の解説は、「伊予国分寺」の解説の一部です。
「奥之院」を含む「伊予国分寺」の記事については、「伊予国分寺」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「奥之院」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「奥之院」の関連用語

奥之院のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



奥之院のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの金剛峯寺 (改訂履歴)、圓教寺 (姫路市) (改訂履歴)、神峯山寺 (改訂履歴)、小鎚神社 (改訂履歴)、浄瑠璃寺 (改訂履歴)、伊予国分寺 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS