創建時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 07:46 UTC 版)
錦帯橋は1673年(延宝元年)に、岩国藩主吉川広嘉によって建造されたものである。 初代岩国領主の吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐ橋は数回架けられているが、錦川の洪水により流失していた。 3代領主の広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。橋脚をなくせば流失を避けられるとのアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった。 広嘉がある日、かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て橋の形のヒントを得たという。また、明の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。 延宝元年(1673年)6月8日に基礎の鍬入れが始められ、児玉九郎右衛門の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に2個、中間に4個の計6個築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の5連橋を架けた。広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したという。同年10月、錦帯橋は完成し、地元で家内睦まじいことで評判の農家清兵衛の一家12人による渡り初めが行われた。しかし、翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し再建した。この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。 なお、橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されていた。ただし当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった。
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