創建後の源宗寺と大仏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 09:08 UTC 版)
「源宗寺 (熊谷市)」の記事における「創建後の源宗寺と大仏」の解説
1713年(正徳3年)、源宗寺の本尊である薬師如来像、観世音菩薩像が破損したために修繕が行われた。その際に源宗寺の周囲約1里(約4キロメートル)以内の村々から、薬師如来像、観世音菩薩像の修繕費用が支出された。このことから当時、源宗寺は近隣から尊崇を集めていたことが推測できる。 その後、6世住職の上誉上人の1742年(寛保2年)には、洪水によって大きな被害を受け、8世住職喚誉上人の時代には本堂の修復が行われたという。しかし9世住職の教誉輪徹和尚は寺の財産を次々と売り払い、源宗寺自体も賭場にしてしまった。結局、進退窮まった教誉輪徹和尚は1754年(宝暦4年)、着の身着のままで源宗寺を去ることとなったと伝えられている。 そして18世紀半ば頃には、忍藩領内に忍三十四か所の観音霊場巡りが選定されたと考えられている。秩父三十四箇所の観音霊場巡りなど、観音霊場巡りが盛んになるにつれて、各地に観音霊場札所を選定する動きが活発化したが、忍三十四か所の観音霊場の成立はそうした動きの一環であった。源宗寺は忍三十四か所の5番札所とされ、御詠歌は 平戸をもさらで迎ひよ紫の 雲の棚引く藤井寺 であった。当時、多くの巡礼者が源宗寺を訪れていたとの言い伝えが残っている。 11世住職の吟誉上人快明和尚は、新たな寺の創建、各地に供養塔を建立し、説法も積極的に行っていくなどの活躍を見せた。また名筆家としても知られ、吟誉上人快明和尚筆の「ちちぶ道しるべ」の石碑が熊谷市内に現存している。1783年(天明3年)、吟誉上人快明和尚は在任のまま亡くなった。
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