創建当時の古河家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:05 UTC 版)
古河財閥の創始者、古河市兵衛は奉公人から商才で出世し、足尾銅山に投資し「銅山王」と言われた。しかしその背後には足尾鉱毒事件や激しい労働争議などの問題を抱えていた。市兵衛には当初子がなかったので、陸奥宗光次男、潤吉を養子に迎えた。古河潤吉は1905年(明治38年)に古河鉱業会社を設立し社長になり、副社長に原敬を迎え合理化を計るが、同年、35歳で病没する。 ところで、市兵衛には1887年(明治20年)、妾との間に実子、虎之助が生まれていた。慶應義塾普通部を経て米国コロンビア大学に留学していたが、潤吉死去の報を受け帰国し、古河家第三代当主となる。社業は第一次世界大戦による好況で急成長し、1917年(大正6年)には古河銀行を設立するなど経営の多角化をすすめ、「古河財閥」の基盤を確立した。西ケ原の邸宅が現在の形になったのはこの時期に当たる。
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