創建縁起とは? わかりやすく解説

創建縁起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:33 UTC 版)

當麻寺」の記事における「創建縁起」の解説

当麻曼荼羅への信仰広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物記録當麻寺草創縁起見られるうになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期成立した建久御巡礼記』という書物である。これは、建久2年1191年)、興福寺の僧・実叡がさる高貴女性鳥羽天皇皇女八条院と推定される)を案内して大和著名寺社巡礼した際の記録である。同書載せる縁起によれば、この寺は法号を「禅林寺」と称し聖徳太子異母弟である麻呂古王が弥勒仏本尊として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇9年680年)に「遷造」(遷し造るしたものだという。そして、当麻の地は役行者ゆかりの地であり、役行者所持していた孔雀明王像を本尊弥勒仏胎内納めたという。 建長5年1253年)の『大和国當麻寺縁起によれば麻呂子王による草創推古天皇20年612年)のことで、救世観音本尊とする万宝蔵院(万法院)として河内国創建されたものであるという。その後天武天皇2年673年)に役行者から寺地現・當麻寺がある当地)の寄進を受けるが、天武天皇14年685年)に至ってようやく造営とりかかり、同16年687年)に寺名當麻寺として供養されたとする。『上宮太子拾遺記』(嘉禎3年1237年)所引の『当麻寺縁起』は、創建の年は同じく推古天皇20年とし、当初は今の當麻寺南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6年692年か)に現在地移築されたとする。なお、前身寺院所在地については味曽地とする説のほか、河内国山田郷とする史料もある(弘長2年1262年の『和州當麻寺極楽曼荼羅縁起』など)。河内国山田郷の所在地については、交野郡山田現大阪府枚方市)とする説と、大阪府南河内郡太子町山田とする説がある。 以上のように、史料によって記述細部には異同があるが、「聖徳太子異母弟麻呂子王によって建立され前身寺院があり、それが天武朝至って現在地移転された」という点はおおむね一致している。福山敏男は、縁起諸本検討したうえで、麻呂子王による前身寺院建立については、寺史古く見せるための潤色であるとして、これを否定している。前述のように、寺に残る仏像梵鐘等の文化財や、出土品どの様式年代はおおむね7世紀末まではさかのぼるもので、當麻寺壬申の乱功績のあった当麻国見によって7世紀末頃に建立され氏寺であるとみられる

※この「創建縁起」の解説は、「當麻寺」の解説の一部です。
「創建縁起」を含む「當麻寺」の記事については、「當麻寺」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「創建縁起」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「創建縁起」の関連用語

創建縁起のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



創建縁起のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの當麻寺 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS