坂上田村麻呂伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/05 09:17 UTC 版)
坂上田村麻呂伝説(さかのうえのたむらまろでんせつ)は、平安時代の征夷大将軍としても高名な大納言の坂上田村麻呂に関する伝説。主に鬼神討征など文芸的な伝説・創作の『討征譚』、地名や記念物および寺社建立にまつわる言い伝えの『寺社縁起譚』の2系統に分類され、その両方が交錯する『英雄譚』が日本各地に残されている。征夷大将軍や鎮守府将軍として功績を残したことから、足跡を辿るように東北地方に特に多く分布する[1]。
注釈
出典
- ^ a b 高橋 1986, pp. 214–216.
- ^ 阿部 2004, p. 65.
- ^ 高橋 1986, pp. 207–211.
- ^ 阿部 2004, pp. 66–68.
- ^ 阿倍 2004, pp. 73–74.
- ^ 阿倍 2004, pp. 78–79.
- ^ 内藤 2007, pp. 226–227.
- ^ 阿倍 2004, pp. 120–121.
- ^ 高橋 1986, p. 204.
- ^ 阿部 2004, p. 9.
- ^ 高橋 1986, pp. 209–211.
- ^ a b c d e f 阿部 2004, pp. 116–120.
- ^ a b c d e 阿部 2004, pp. 120–121.
- ^ 日本放送協会. “「鬼死骸村」訪ねるツアー 村が実在した岩手県一関市で開催”. NHKニュース. 2021年10月13日閲覧。
- ^ 色麻町役場. “おかっぱ様(磯良神社)”. 色麻町役場. 2021年3月3日閲覧。
- ^ 藤沢 2018, pp. 311–314.
- ^ 桐村 2012, pp. 7–11.
- ^ 桐村 2012, pp. 89–93.
- ^ 立石 2006, pp. 132–133.
- ^ 薬師寺 2003, p. 190.
- ^ a b 高橋 1986, pp. 211–212.
- 1 坂上田村麻呂伝説とは
- 2 坂上田村麻呂伝説の概要
- 3 概要
- 4 史実性の議論
- 5 脚注
- 6 外部リンク
坂上田村麻呂伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 06:30 UTC 版)
ソハヤノツルギ - 田村語り並びに坂上田村麻呂伝説に登場する稲瀬五郎坂上俊宗(田村将軍)の名剣。鈴鹿山の大嶽丸討伐などに使用された。神通の剣と表記する写本もある。現存する大刀「騒速」に逸話が仮託される。 倶利伽羅剣 - 唐土にて田村将軍の父・藤原俊仁を打ち倒した不動明王の剣。降魔の利剣。 三明の剣 - 田村将軍の妻となった天女・鈴鹿御前(もしくは天の魔焰・立烏帽子)が所有する剣。顕明連、大通連、小通連の3振りの総称。立烏帽子が最初から所有している「鈴鹿系」(古写本の系統)の物語と、大嶽丸が所有していたものを鈴鹿御前が奪う「田村系」(流布本の系統)の2系統の物語に分類される。
※この「坂上田村麻呂伝説」の解説は、「架空の武器」の解説の一部です。
「坂上田村麻呂伝説」を含む「架空の武器」の記事については、「架空の武器」の概要を参照ください。
坂上田村麻呂伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 08:24 UTC 版)
坂上田村麻呂が桓武天皇の命を受けて、鬼と恐れられこの地を荒らし廻っていた海賊・多娥丸(たがまる)を征伐したという伝説。
※この「坂上田村麻呂伝説」の解説は、「鬼ヶ城」の解説の一部です。
「坂上田村麻呂伝説」を含む「鬼ヶ城」の記事については、「鬼ヶ城」の概要を参照ください。
坂上田村麻呂伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 10:11 UTC 版)
※この「坂上田村麻呂伝説」の解説は、「藤原千方の四鬼」の解説の一部です。
「坂上田村麻呂伝説」を含む「藤原千方の四鬼」の記事については、「藤原千方の四鬼」の概要を参照ください。
坂上田村麻呂伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 06:27 UTC 版)
詳細は「田村語り」および「坂上田村麻呂伝説」を参照 坂上田村麻呂は民間伝承(フォークロア)の架空の英雄としても登場する。三重県・滋賀県にまたがる鈴鹿峠一帯に田村麻呂による鈴鹿山の鬼神討伐の足跡が数多く残されている。三重県亀山市にある片山神社は、江戸時代に刊行された『伊勢参宮名所図会』「鈴鹿山」で鈴鹿峠の鏡岩を挟んで伊勢側に鈴鹿神社、近江側に田村明神が描かれており、京と丹波の境に位置する愛宕山の勝軍地蔵菩薩同様に、鈴鹿山に田村将軍を祀ることで将軍地蔵とみなし、鈴鹿権現と一対になった塞の神信仰が古くから存在していた。滋賀県甲賀市には、鈴鹿山の悪鬼を平定した田村麻呂が残っていた矢を放って「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに自分を祀れ」と言われ、矢の落ちたところに本殿を建てたとされている田村神社、十一面観世音菩薩の石像を安置して鬼神討伐の祈願をした北向岩屋十一面観音、討伐した大嶽丸を手厚く埋葬したという首塚の残る善勝寺、鈴鹿山の山賊討伐の報恩のために堂宇を建立して毘沙門天を祀ったという櫟野寺がある。兵庫県加東市の播州清水寺には、聖者大悲観音の霊験により鈴鹿山の鬼神退治を遂げた報謝として佩刀騒速と副剣2振を奉納している。 東北地方では岩手県、宮城県、福島県を中心に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地(青森県など)にも分布するが、京都市の清水寺を除いて、ほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。 東北地方の他に関東、中部、畿内、中国地方にまで及ぶ。縁起や伝説を持つ主な社寺として茨城県鹿嶋市鹿島神宮、那珂市上宮寺、城里町桂地区下野達谷窟、栃木県矢板市木幡神社、将軍塚、那須烏山市星宮神社 (那須烏山市)、新潟県十日町市松苧神社、大田原市那須神社、群馬県三国峠田村神社、埼玉県東松山市正法寺(岩殿観音)、長野県安曇野有明山、長野市松代町西条清水寺、若穂保科清水寺、諏訪市諏訪大社、山梨県富士吉田市冨士山下宮小室浅間神社、静岡県浜松市岩水寺や有玉神社、岡山県倉敷市児島由加神社などが挙げられる。 このように後世、田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ様々な物語を生んだ。室町時代初期、世阿弥作とされる勝修羅三番のひとつ能『田村』が成立、清水寺の縁起とともに田村麻呂が勢州鈴鹿の悪魔を鎮めたと語られ、室町時代中期から後期にかけて成立したお伽草子『鈴鹿の草子』や室町時代物語『田村の草子』などでは田村麻呂と鎮守府将軍・藤原利仁との融合や、鈴鹿御前(立烏帽子)の伝承が採り入れられており、近江国の悪事の高丸や鈴鹿山の大嶽丸を討伐する話になる。これらは江戸時代の東北地方に伝わって奥浄瑠璃の代表的演目『田村三代記』として語られた。
※この「坂上田村麻呂伝説」の解説は、「坂上田村麻呂」の解説の一部です。
「坂上田村麻呂伝説」を含む「坂上田村麻呂」の記事については、「坂上田村麻呂」の概要を参照ください。
- 坂上田村麻呂伝説のページへのリンク