史実性の議論
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岩手県、宮城県、福島県を中心に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地(青森県など)にも分布するが、京都市の清水寺を除いて、ほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。 坂上田村麻呂伝説について高橋崇は、討征譚や縁起譚の他に口誦伝説も多く、征討のさいに腰をかけて休んだ石や、矢をかけた矢掛松、奥州誕生説を説いて産湯に使用した泉など「だれの場合にもつきものの採るに足らぬ俗説も多い」とし、伝説がどのようにして作られ、いかなる方法で流布したかなども考慮しなくてはいけないとしている。また後世の東北地方で田村麻呂を称え、思募していることについて、田村麻呂本人にとってはあずかり知らないことであるが、後世の人々が伝説を受け入れたのは確かであるとしている。
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史実性の議論
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高橋崇は著書『坂上田村麻呂』において、史実におけるアテルイの降伏に対し「史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う」と史料に基づく記述への配慮をしつつ、それと同時に悪路王など坂上田村麻呂伝説全般について「採るに足らぬ俗説」としている。また新井白石について『読史余論』で陸奥の夷高丸が駿河の国清見が関まで攻め上がり、田村丸はこれをうち取り、北に追って陸奥の神楽岡で斬ったと記述していることについて「合理性と実証を重んじた史学者として白石らしからぬ叙述」と批判している。 桃崎有一郎は著書『武士の起源を解きあかす: 混血する古代、創発される中世』において、『吾妻鏡』での悪路王は田村麻呂と利仁の2人に討伐されたとあるが、2人は同じ時代の人物ではなく、悪路王も実在した可能性がほぼないとしている。また『吾妻鏡』の記述についても、頼朝の段階で別のいい加減な伝説が語られていたとしている。
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史実性の議論
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仙台藩士・佐藤信要が寛保元年(1741年)に記した『封内名跡志』では、長谷大悲閣(長谷観音)について田村麻呂の観音には長谷寺を移したとあるものが多いが田村麻呂が信仰したのは山城清水寺であるとして「事実を弁せず妄りに田村の建というは尤も疑ふべし」、馬頭閣(鱒淵観音)について田村麻呂東征の時にこの地を通過したことは正史旧記に見えないとし「尤も疑ふべし」と断じている。また江戸時代の安永年間(1772年 - 1781年)に相原友直が仙台藩の風土を記した『平泉雑記』の「田村将軍建立堂社」でも、田村麻呂建立の観音は「大同2年」が多く、悉く信用が不足していると述べている。
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史実性の議論
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『吾妻鏡』では、頼朝が教えられた内容として、田村麻呂は鎮守府八幡宮を祀り、達谷窟では田村麻呂利仁等が悪路王や高丸を討伐して毘沙門堂を建立したと、史実における田村麻呂の事蹟とは異なる記述がされている。『吾妻鏡』の記述は田村麻呂の没後、約370年が経過した頃となり、おそらくはアテルイの事蹟が反映して伝説化さされた架空の人物である悪路王を登場させ、有名な武将の建立とさせるなど、漠然と史実に似て非なる点を含んでいる。 松本盆地一帯の魏石鬼八面大王の伝説では、妻の紅葉鬼神ともども伝説上の人物である田村利仁によって討伐されたという『信府統記』の記述に基づく伝説が残る。しかし『仁科濫觴記』に見える、田村守宮を大将とする仁科の軍による、八面鬼士大王を首領とする盗賊団の征伐を元に産まれた伝説であると考えられているため、史実上の人物である坂上田村麻呂による征討という史実性はない。 桐村栄一郎は、熊野の鬼退治伝説は、坂上田村麻呂が熊野へ遠征している事で成立しているが、史実において田村麻呂が熊野へ遠征した歴史的事実は確認できないとしている。金平鹿の伝説では、先に「時の権力に抵抗する勢力を鎮圧した」伝承があり、時代と共に伝承の中身や主役が入れ替わったのではないかとしている。『熊野山略記』には、「桓武天皇の頃に熊野山が蜂起し、併せて南蛮の乱も起き、熊野三党(榎本氏、宇井氏、穂積氏(藤白鈴木氏))に征伐せよとの勅命が下ったとある。嵯峨天皇の弘仁元年(810年)、熊野三党は大将の愛須礼意と孔子を討ったが、悪事高丸は討ち逃した。東国に逃げた高丸を坂上田村丸が征伐した」とある。『熊野山略記』では熊野三党が主役で田村麻呂は脇役であるが、「南蛮」が「鬼」に、「榎本、宇井、鈴木」が「田村麻呂」に入れ替わったのが熊野の坂上田村麻呂伝説のルーツではと推測している。 高橋崇は、田村麻呂建立寺社伝説も、鬼神退治物語も、後世の人々がそれを受け入れていたことは確かであるとしながらも、田村麻呂本人の与り知らぬことであるとしている。
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史実性の議論
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詳細は「アーサー王の史実性(英語版)」を参照 アーサー王伝説の歴史性は学者によって長期にわたり議論されてきた。最初のアーサーの言及は9世紀のラテン語のテキストに見られる。『ブリトン人の歴史』と『カンブリア年代記』の記述を根拠に、アーサーは実在の人物で、5世紀後半から6世紀初めにアングロサクソン人と戦ったローマン・ケルトの指導者だったとする説がある。『ブリトン人の歴史』は、ウェールズの修道士ネンニウスの作とされる9世紀のラテン語の歴史書で、いくつかの写本に残されている。これにはアーサーがブリトン人の王達と共にサクソン人との12回にわたる戦を行った事、最後の戦バドニクス山(ベイドン山)の戦いで、アーサー側の一度の襲撃により一日で960人の敵を倒し大勝利に終わった事が書かれている。しかし、最近の研究では『ブリトン人の歴史』の信用性に疑問が投げかけられている。 もうひとつのアーサーの史実性を証明する史料は、10世紀の『カンブリア年代記』である。これもアーサーをバドニクス山の戦いと関わりのある人物としている。『カンブリア年代記』によると、この戦いが行われたのは518年のことで、メドラウド(モードレッド)とアーサーが討ち死にしたカムランの戦いは539年に起きたとされる。従来はこの記述が『ブリトン人の歴史』の記述の信用性を保証するものであり、アーサーが本当にバドニクス山の戦いを行ったことを証明するものとされてきた。しかし、『ブリトン人の歴史』を補強する史料として『カンブリア年代記』を利用することに対し、いくつかの問題が指摘されている。最新の研究によると『カンブリア年代記』は8世紀後半のウェールズの年代記を元にしているという。しかし、『カンブリア年代記』は複雑な経緯を経て成立した作品で、アーサーの記述が8世紀後半の時点で存在していたことを確かめることは困難である。本来この記述はまったく存在せず、10世紀になってはじめて他の資料を参考にして追加された可能性がある。逆に、バドニクス山の箇所は『ブリトン人の歴史』に由来するのかもしれないのである。 このように、アーサーの歴史性を証明する、信頼できる初期の史料は非常に乏しい。そのため現代の多くの歴史家がローマ影響下時代のブリテン島の歴史叙述でアーサーを除外している。歴史家トーマス・チャールズ=エドワーズは、「現段階では、アーサーという人物はいたかもしれない、としか言いようがない。歴史家としてアーサーを評価することは不可能である」としている。このような見方が最近の比較的一般的な見解である。少し前の世代の歴史家はもっと楽観的で、歴史家ジョン・モリスは著作『アーサーの時代』でアーサーの統治時代をローマ帝国以後のブリテンとアイルランドの歴史の初期段階に置いている。ただし、モリスは歴史上のアーサーについてほとんど何も記述していない。 以上のような、限定的にせよアーサー王の史実性を認める説に対し、アーサーという人物は歴史上全く存在しなかったと主張する説がある。考古学者ノーウェル・マイヤーズは前述のモリスの『アーサーの時代』に対し、「歴史と神話の境界に立つ人物に歴史家が時間を費やすようなことは一度たりともない」と述べている。6世紀のギルダスの『ブリタニアの略奪と征服』は、バドニクス山の戦いの記憶がまだ残る時代に書かれたものである。にもかかわらず、戦い自体の記述はあるもののアーサーについては何も書かれていない。『アングロサクソン年代記』にもアーサーの記述はない。もうひとつのポスト・ローマ時代のブリタニアの重要な史料である8世紀のベーダの『英国民教会史(Historia ecclesiastica gentis Anglorum)』も、バドニクス山には触れているがアーサーの名は書かれていない。それどころか、400年から820年に書かれたあらゆる写本にはアーサーは名前すら登場しないのである。歴史家デーヴィッド・ダンヴィルは次のように書いている。「われわれはアーサーに関し、非常に簡潔に事を済ませることができると思う。彼が歴史書に登場するのは「火の無い所に煙は立たぬ」と考える学者がいるからである。この問題は実際のところ、アーサーの歴史性を証明する証拠はまったく存在しないという、ただそれだけのことだ。アーサーを歴史書に書き加えてはならないし、アーサーに関する本を歴史書と呼ぶべきではない。」 アーサーは最初から民間伝承(フォークロア)の架空の英雄だったのだ、と主張する学者もいる。ヘンギストとホルサ(本来はケントの氏族神で馬を司る神だったが、後世に歴史上の人物とされた。ベーダの『英国民教会史』では、この二人は5世紀のアングロサクソン人によるブリテン島東部の征服を指導した人物になっている。)との類似点を指摘して、アーサーも実は半ば忘れ去られたケルトの神で、後に歴史上の出来事に結び付けられたとする学説もある。なお、初期の史料によると同時代の人々はアーサーを王と考えていなかったらしい。『列王史』や『カンブリア年代記』には彼の称号として「王(rex)」が使われておらず、『列王史』では「戦闘指揮官(dux bellorum)」、あるいは単に「兵士(miles)」と呼ばれているにすぎない。 ポスト・ローマ時代は史料にとぼしく、そのためアーサーの歴史性の問題に明確に答えを出すのは困難である。12世紀以降、数多くの遺跡や場所が「アーサー時代のもの」とされてきたが、考古学的には、しっかりした年代測定の碑文の調査を通すと名前以上のことは何も明らかにできていない。1998年にコーンウォールのティンタジェル城の遺跡で「アーサーの石」なるものが発見され話題になったが、実際には無関係であることが証明された。「グラストンベリーの十字架」など、他のアーサーに関する碑文資料のいずれも贋作の疑いを逃れるものはない。アーサーの原型となった人物として数名の歴史上の人物の名が挙げられているが、どれもそれらがアーサーであることを裏付ける確実な証拠は発見されていない(具体的には、2世紀ないし3世紀にブリタニアに進駐していたローマ人将校ルキウス・アルトリウス・カストゥス、簒奪帝マグヌス・マクシムス、ローマ影響下のブリタニアを統治したとされる数名の人物、リオタムス(Riothamus)、アンブロシウス・アウレリアヌス、オウェイン・ダヌイン(Owain Ddantgwyn)、アスルイス・アプ・マウリグ(Athrwys ap Meurig)など)。1136年にはウェールズ人ジェフリー・オヴ・モンマスの書いた『ブリテン列王記』が初めてアーサーの全生涯を詳しくを述べているが、これはすでに著者の空想が多くの部分を占めている。
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史実性の議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 00:49 UTC 版)
上記のとおり高丸は鎌倉時代末期の『元亨釈書』で創出された実在しない人物である。 高橋崇は著書『坂上田村麻呂』において、新井白石が『読史余論』で陸奥の夷高丸が駿河の国清見が関まで攻め上がり、田村丸はこれをうち取り、北に追って陸奥の神楽岡で斬ったと記述していることについて「合理性と実証を重んじた史学者として白石らしからぬ叙述」と批判している。
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