12世紀以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:26 UTC 版)
12世紀は高麗が在った地域の人々の間では高麗青磁の最盛期だとされている。器形や作風に中国・宋で評判の高かった耀州窯、定窯、汝窯などの影響を受けつつ、量産品として日用品の青磁を生産した。また、高級品としては高麗特有の象嵌青磁を施された物が制作され、江南よりも華北で好まれた。器種としては瓶(へい)、梅瓶(メイピン、口が狭く肩の張った形態の瓶)、鉢、水注、香炉、水滴など様々あり、香炉や水滴には人物、動物、器物などの具象的形態を器形とした彫塑的なものもある。宋の徐兢は、1123年、宋の使節として高麗に滞在した時の見聞記『宣和奉使高麗図経』を著わしたが、その中で高麗青磁の釉色について青色の事を高麗人は翡色と呼び近年この色を出せるように成ったと記録している。当時の青磁は、官窯で王族や上流階級向けに製作され、大量に生産し流通する製品ではない一品制作であった。 1170年の武臣の乱を契機とする社会状況の変化とともに磁器の作風も変わり、それまでの単色磁に加えて象嵌青磁が盛んに作られるようになる。象嵌とは、元は金属工芸の用語で、素地土に文様の形を彫り、色違いの土を埋め込んで仕上げるものである。それまでの高麗の磁器は、無文のものも多く、透彫、陰刻などの加飾があっても基本的に単色のものであったが、12 - 13世紀には、土色の違いによって図柄を表す象嵌青磁が盛行し、青磁に銅呈色の赤色系統の文様が加わった銅画(日本語では「辰砂」という)も使用された。 14世紀の青磁について、量産化とともに作風や質の低下を主張する者も居る、次の朝鮮王朝時代には粉青沙器がやきもの界の主流となった。 象嵌青磁雲鶴文梅瓶 青磁竹節水注 青磁辰砂蓮花文水注 フリア美術館蔵
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