11世紀-12世紀
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名田を中心とする収取体制は、11世紀-12世紀以降、一円化して領域制を高めつつあった荘園にも導入された。荘園内の田地は名田へ再編成され、田堵らが名田経営と領主への貢納を請け負った。領主への貢納のうち、国衙領でいう官物にあたるもの(田地からの収穫米)が年貢と呼ばれるようになった。 こうして成立した年貢は、その後の中世・近世を通じて、支配層の主要な財源として位置づけられ、被支配層にとっては年貢を負担する義務が課され続けたのである。
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11世紀 - 12世紀
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「ヴェルジー家」の記事における「11世紀 - 12世紀」の解説
第二のヴェルジー家はアンリ1世の庶子ウードとアンリが始祖である。 アンベール・ド・ヴェルジー(1000年 - 1060年) アンリの子、ヴェルジー領主(1023年 - 1030年)、その後パリ司教。ヴィヴァンのサン=ドニ司教座聖堂参事会教会を創立。アリックス・ド・ヴェルジーにより再建されたが、現在は塔のみが残る。 ジャン・ド・ヴェルジー(1053年没) ウードの子、子孫がヴェルジー領主を継承。孫のエリザベート・ド・ヴェルジー(1119年没)がシャテル=サンソワール領主サヴァリック(1120年没)(スミュール家)と結婚。 12世紀、ルイ7世はヴェルジーを王国で最も堅固な要塞と考えていた。この頃に現存するサン=サテュルナン教会が創建された。 1185年、ブルゴーニュ公ユーグ3世がユーグ・ド・ヴェルジー(Hugues de Vergy)(1141年 - 1217年)に税金を課そうとし、18か月包囲したが、失敗に終わった。翌年、フランス王フィリップ2世が包囲を解いた。 1199年、アリックス・ド・ヴェルジー(Alix de Vergy)(1170年 - 1252年)はウード3世と結婚し、ヴェルジー領およびヴェルジー城はブルゴーニュ公領に統合された。 他に2家の分家があった。 ボーモン領主家(12世紀 - 13世紀) ユーグ・ド・ヴェルジー(1141年 - 1217年)の弟シモンを始祖とする。 ミルボー、フヴァン=サン=タンドッシュ、シャンリットおよびオートレイ領主家(1180年 - 1625年) アリックス・ド・ヴェルジー(1170年 - 1252年)の兄ギヨーム・ド・ヴェルジー(1180年 - 1240年)を始祖とする。アンリ1世・ド・ヴェルジー(Henri Ier de Vergy)(1205年 - 1258年)はギヨームの子である。この家は現在は断絶しているが、ミルボー、ブルボンヌ領主家などの多くの分家に分かれた。Champuant領主家は15世紀にブルゴーニュのセネシャルおよびマレシャル位を与えられ、1517年にはブザンソン大司教となった。シャンリット伯家、オートレイ領主家および15世紀にフランスのマレシャル位を与えられたダンマルタン伯家も分家である。Fonvers領主家ではブザンソン大司教ギヨーム・ド・ヴェルジー(Guillaume de Vergy)が1391年に枢機卿となった。
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