11世紀 - 15世紀
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「ハレー彗星」の記事における「11世紀 - 15世紀」の解説
1066年 この時のハレー彗星はバイユーのタペストリーに書かれており、ハロルド2世の即位後まもなく彗星が現れ、従臣たちを怯えさせたことが記録されている。その後、イングランド王国は外国からの侵略を受け、ハロルド2世は戦死、国は征服された。この時のハレー彗星は金星の4倍ほど大きく、月の明かりの4分の1ぐらい明るいと描写されている。このときの接近距離は0.10auである。 また、この彗星は『アングロサクソン年代記』にも見られ、マルムズベリーのエイルマーはハレー彗星を989年にも見たと思われるような文章を残している。アイルランドの年代記『Annals of the Four Masters』(英語版)第2巻にある「月よりも明るい星」もハレー彗星に比定する説がある。ニューメキシコのネイティブ・アメリカンもペトログリフにこの出現を表した可能性がある。 日本では『一代要記』『扶桑略記』に記載があり、治暦2年(1066年)の4月に見られた旨が書かれてある。中国では『宋史』に記録があり、治平3年(1066年)4月2日の朝に東の空、ペガスス座で見られたと書かれている。『高麗史』にも4月19日に観測されたとあるが、4月24日ではないかという疑義がある。 1145年 ヨーロッパでは修道士のEadwineによる書に記録が残されている。扇風機のようなハレー彗星の絵が掲載されている。 日本では『台記』『一代要記』『百錬抄』に記述が見られる。『台記』には天養2年(1145年)5月9日に出現してからが詳細に書かれており、5月19日から5月22日に姿を現さず、5月23日にもう一度現れたことも書かれてある。『一代要記』『百錬抄』については内容は『台記』に及ばないものの出現について記録されている。 中国では『宋史』に観測記録があり、紹興15年(1145年)4月26日に出現が始まり、近日点通過による2回の出現を経て6月24日に消えたことが書かれている。朝鮮では『高麗史』『高麗史節要』などに記録がある。5月14日から5月29日まで15日間の間記録されており、長さは視直径で10°に及んだとある。 1222年 1222年のハレー彗星の出現はチンギス・カンがヨーロッパへ侵攻する誘因になったのではないかという説がある。なお、この年の彗星はヨーロッパに記録が見られない。 日本では『吾妻鏡』『百錬抄』『皇代暦』『皇年代略記』に見られる。『吾妻鏡』では貞応元年(1222年)9月8日に見られたとあり、中心部分(=コマ)は月の半分ほどと記録されている。『百錬抄』『皇代暦』『皇年代略記』についても9月に見られたことが書かれている。 中国では『宋史』に見られ、嘉定15年(1222年)9月25日にうしかい座で現れて2か月間見られたことが書かれている。朝鮮では『高麗史』に観測記録があり、1222年9月3日に見られたことが書かれている。 1301年 『元史』に観測記録があり、大徳5年(1301年)9月16日にふたご座の方で見られたとある。また、その後は46日間見られ、10月31日消えたと書かれてある。朝鮮では『高麗史』に観測記録が見られ、忠烈王27年(1301年)10月1日に見られたとある。 ジョット・ディ・ボンドーネによるパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画『東方三博士の礼拝』(1305年頃完成)に描かれたベツレヘムの星は彼自身が見たと思われるハレー彗星を描いたものであると考えられている。 1378年 日本では1378年以後も日本にも観測記録はあるもののヨーロッパの文献から得られた既知の内容より分かるものはない。中国では『明史』洪武11年(1378年)9月26日にぎょしゃ座で現れた旨が記載されている。朝鮮では『高麗史』に観測記録があり、辛禑4年に西から東に見られたとある。 1456年 中国では『明史』に観測記録があり、景泰7年(1456年)5月7日、おひつじ座の方で見られ、7月6日にしし座で消えたことが書かれている。朝鮮でも観測記録があり、世祖2年(1456年)6月6日から記録がある。近日点通過のため6月13日から6月19日を除いて6月29日まで観測された。 ヨーロッパではオスマン帝国がハンガリー王国侵攻の際のベオグラード包囲(英語版)の真っ只中であった。カリストゥス3世による教皇勅書ではベオグラードに御加護があるよう祈るように命じた。1470年、人文主義者、Bartolomeo Platina(英語版)は彼の著作で以下のことについて言及している。 毛に覆われていて燃えているような星がここ数日現れた。数学者によると最悪の疫病、飢饉、大災害が起こるとのことだ。カリストゥス3世は神の怒りから免れるために「もし人類の危機が差し迫っているのならトルコ人(=キリスト教の敵)に全てを向けよ」と祈祷して命じた。また、絶え間なく祈祷を続け神を動かそうとし、祈りによってトルコ人と戦っている者たちを助けるため真昼に信者を呼ぶために鐘の音を知らせるように命じた。 Platinaのこの説明は公式には記録されていない。この話は創作による可能性が高いにも関わらず、「教会への怒りのあまり彗星を破門にした。」とフランス人によって誇張して面白おかしく潤色された。 インドではカシミールでこの彗星が目撃され、詩人かつ伝記作家のŚrīvaraによって詳細に描かれている。彼はこの彗星の出現をSultan Zayn al-Abidin(1418/1420-1470)の没落を意味すると考えた。 また、エチオピアでは1434年から1468年までの間のエチオピア帝国王、Zara Yaqob(英語版)が明るい光(=ハレー彗星)を目撃し、光の都市、デブレ・ヘルハン(英語版)を設営して彼の治世の時に首都とした。
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