忠烈王とは? わかりやすく解説

忠烈王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/15 10:12 UTC 版)

忠烈王(ちゅうれつおう、1236年4月3日 - 1308年7月30日)は第25代高麗王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)。


  1. ^ 斉国大長公主。『元史』巻109・諸公主表では「斉国大長公主忽都魯堅迷失」とある。後の荘穆王后。『高麗史』巻89・后妃伝巻2によると、皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。生母である阿速真可敦については、現在『集史』クビライ・カアン紀に記載されているクビライの第8皇子アヤチ(アバチ)と第9皇子ココチュの生母であったフーシン部族のボロクルムカリをはじめとするいわゆる「チンギス・カンの四駿(Dörben Külü'üd)」のひとり)の娘、フウシジン皇后 Hūshījīn Khātūn との比定が試みられているが、確定には至っていない。(森平雅彦「高麗王家とモンゴル皇族の通婚関係に関する覚書」『東洋史研究』67-3、2008年)旧妃は始安公絪娘 貞和宮主と淑昌院妃であるが、荘穆王后との婚姻後には王は旧妃に近寄らなくなったという。(『高麗史』巻89・后妃伝巻2「貞和府主」条および「淑昌院妃」条)
  2. ^ 『高麗史』に詳細に記述されている。『高麗史』巻27・世家27・元宗世家3 元宗十三年 二月己亥 条の中書省牒に載る世子王諶の言葉に、「吾父子相継朝覲、特蒙恩宥、小邦人民、得保遺噍、感戴之誠、言不可既。諶連年入覲、毎荷皇恩、区区之忠、益切致効。惟彼日本、未蒙聖化、故発詔使、継耀軍容、戦艦兵糧、方在所須。儻以此事委臣、庶幾勉尽心力、小助王師」
    高麗史』巻29・世家29・忠烈王世家6 忠烈王六年八月辛卯〜乙未(1280年9月17日 - 21日) 条「辛卯:公主宴愛牙赤于新殿。王至上都。時帝在闍干那兀。王遂如行在。乙未:謁帝。帝宴王、仍命従臣赴宴。先是、王使朴義奏曰:『東征之事、臣請入朝禀旨』。帝許之」
  3. ^ a b 『高麗史』巻104・列伝17・金方慶伝「(元宗)十五年、帝欲征日本、詔方慶与茶丘、監造戦艦。造船若依蛮様、則工費多、将不及期、一国憂之。方慶為東南道都督使、先到全羅、遣人咨受省檄、用本国船様督造」
  4. ^ 『元史』巻12・本紀12・世祖本紀9 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日) 条「高麗国王請自造船百五十艘、助征日本」
  5. ^ 一例として『高麗史』巻16・世家28・忠列王1 忠烈王元年冬十月壬子(1275年11月4日)条に「壬子:以将献処女于元、禁国中婚嫁」とあり、忠烈王元年10月に元朝に処女を献ずるため国中で婚姻を一時禁じている。また、同十一月癸未(同年11月25日) 条に「癸未:遣僉議賛成事兪千遇、如元賀正、告改官制、献処女十人」とあり、元朝宮廷への賀正使として僉議賛成事の兪千遇を派遣し、官制改めたことを報告し、併せて処女 10人を献じたことを記している。
  6. ^ a b 忠烈王は後述のように即位前に質子(トルカク)として出されたクビライの宮廷にてケシクの一員として近侍していたため、モンゴル人と同じ服装や髪型をしていた。そのため、『高麗史』によれば、彼が高麗に帰着したときにその容姿をみた高麗の廷臣たちは、「国人、世子の弁髪・胡服を見、皆な歎息して、泣く者すらあるにいたる。」(『高麗史』巻27・世家27・元宗世家3 元宗十三年二月己亥「二月己亥、世子諶還自元、帝遣断事官不花・馬絳等偕来(中略) 国人見世子辮髪胡服、皆歎息、至有泣者」)と述べている。これは彼自身がモンゴル宮廷での庶務に従事する必要上、モンゴル宮廷の慣習に従っていただけであったが、当初、高麗宮廷では王国の後継者がモンゴル人と同じ恰好をしていたことは歓迎されていなかった。
  7. ^ 婚姻の年月は不明だが、この外に金良鑑の娘を淑昌院妃として妃としている
  8. ^ 禿魯花ではないが、実質の人質。禿魯花とはモンゴル語の「トルカ(torγa)、トルカク(torγaq)」の音写で「人質」のことを言う。モンゴルの習慣では譜代諸侯家やモンゴル帝国に臣従する諸地域の王侯貴族に対してモンゴル宮廷にその子弟を人質として出す習慣があり、これらの人質たちは多くの場合、モンゴル皇帝や王族たちの宮廷で親衛組織であるケシクの要員として入侍させていた。忠烈王もこの時期クビライのもとでケシクの一員として庶務に従事していた。忠烈王以降の世子は禿魯花となって元の大都に行くのが通例となった
  9. ^ 高麗史』巻27・世家27・元宗世家3 元宗十三年 二月己亥 条の中書省牒に載る世子 諶の言葉に、「吾父子相継朝覲、特蒙恩宥、小邦人民、得保遺噍、感戴之誠、言不可既。諶連年入覲、毎荷皇恩、区区之忠、益切致効。惟彼日本、未蒙聖化、故発詔使、継耀軍容、戦艦兵糧、方在所須。儻以此事委臣、庶幾勉尽心力、小助王師」(惟だ彼の日本のみ、末だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵糧は方に須むる所在り。もしこの事を以て臣に委ぬれば、勉めて心力を尽くし、小しく王師を助くるに庶幾からん)
  10. ^ 40歳未満の禁内学官(禁内の秘書・史館・翰林などの文官)に漢語敎育を行なう他 翻訳を司る部門。太祖2年(1393年)にはそれが司訳院と改称される
  11. ^ 高麗史』巻28・世家28・忠烈王世家1 忠烈王四年二月丙子 「(忠烈王四年二月)丙子:令境内皆服上國衣冠。」/『高麗史』巻72・志26・輿服「(忠烈王)四年二月:令境内、皆服上國衣冠開剃。蒙古俗、剃頂至額方其形留髮其中。謂之開剃。時自宰相、至下僚、無不開剃。唯禁内學館不剃。左承旨朴恒呼執事官諭之。於是學生皆剃。」 この令は明の太祖の洪武元年(1387年)の大民之衣冠まで継続するので109年間、蒙古風の弁髮・胡服を高麗の臣官、学生はしていたことになる。
  12. ^ 1287年から1292年にかけて現在の中国東北部から高麗全域を巻き込んだ内乱事件である、いわゆるナヤン・カダアンの乱のうち、叛乱後期に抵抗を続けたカチウン家の王族カダアンのこと。1287年にチンギス・カン諸弟家である東方三王家の首班テムゲ・オッチギン家の当主ナヤンがクビライ政権に対し東方三王家の王族たちを率いて叛乱を起こしたが、クビライの親征軍によって鎮圧された。しかし、クビライの東方三王家に対する戦後処理に不服をもったカチウン家の長老カダアンは息子のラオデイとともに東北部の諸地域を転戦してなおも抵抗を続けた。1290年代には高麗東部の諸城を占拠するに至ったが、1292年に増派された皇孫テムルの軍や高麗国の連合軍による迎撃を受けて鴨緑江の上流部で敗死した。(杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下) 世界経営の時代』講談社現代新書1307、1996年6月20日、p.152-160。)


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