忠烈王の親モンゴル政策と日本侵攻(元寇)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:16 UTC 版)
「モンゴルの高麗侵攻」の記事における「忠烈王の親モンゴル政策と日本侵攻(元寇)」の解説
特に忠烈王は父の元宗の路線を継承し、親モンゴル政策に傾倒した。忠烈王は元宗廃位事件によって父元宗救出のためモンゴル軍の出動を要請したおりに、高麗は以後モンゴル側への出征には率先して労力を惜しまない、という言質を与えたため、クビライの日本侵攻の意志が固まる頃には、その応対に「率先して当たる」態度を幾度も示さねばならなかった。出征に供出する兵員や人員、装備は高麗の国情にとっては重い負担だったようで、クビライの要求を受け入れつつ負担の軽減をその都度嘆願し、場合によっては自弁し切れなかった武器などを元軍から支給してもらうなどしていた。日本侵攻の為の第二、三次征東行省が置かれたが、高麗国王がその次官である左丞相となった。 文永・弘安の役に関わる一連の出来事は高麗王にとって、一面では高麗王家の地位安定に向けた絶え間ない危機と模索の時期であったともいわれる。日本への最初の侵攻となった文永の役(1274年)は、三別抄鎮圧の翌年、遠征軍出発に先立つ高麗世子の王諶と皇女のクトゥルク=ケルミシュと婚姻、直後に元宗が死没しており、その喪が明けると同時に世子の王諶は忠烈王として即位した年でもあるという、高麗にとっても目まぐるしい年であった。征東行省を運営したダルガチ以下のモンゴル人の役人は、高麗では貴族として扱われた。
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