模索の時期
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さらに、『自我礼拝』三部作などにより、かつては青年知識人の敬愛の的でありながら、後に極右的な思想に傾倒して批判されることになったモーリス・バレス(「バレス裁判」参照)の影響はシャルル・モーラスの影響以上に直接的であり、アクシオン・フランセーズから分離したジョルジュ・ヴァロワ(フランス語版)、バレスの息子フィリップ・バレス(フランス語版)らによって結成されたファシズム政党ル・フェソー(フランス語版)に数か月だが参加し、同名の機関誌に寄稿した。また、この関連で、『ル・フェソー』誌と詩誌『アルゴノート(Argonautes、金羊毛を探す冒険に乗り出した「アルゴー船の乗組員」の意)』が合併して創刊された『フリュイ・ヴェール(Fruits Verts、緑の果実)』誌にも参加した。これは、ジッド、ジロドゥ、ジュール・ロマンへのオマージュとして創刊された雑誌で、ニザンは短編、詩篇、プルースト論などを寄稿したが、これも2号で廃刊となった。同様に4号で廃刊になった若手作家・芸術家の雑誌『無題評論(La Revue sans titre)』にはサルトルとともに参加し、後の『番犬たち』に通じる風刺的・体制批判的な「メリーランド(煙草)を2箱吸いながら恋人を解剖した医学生の哀歌(La complainte du carabin qui disséqua sa petite amie en fumant deux paquets de Maryland)」などを発表した。 ニザンは極右への一時的な傾倒だけでなく、宗教に救いを見いだそうとしてプロテスタントへの改宗を考えたり、多くのカトリック作家が訪れたことで知られるサルト県ソレムのベネディクト会の修道院を訪れたり、さらには鬱状態・神経症気味でスイスのサナトリウムに入ることすら考えたりするほどであった。1925年10月にはピサ、フィレンツェ、ローマとイタリアを「巡礼」した。 高等師範学校ではサルトルのほか、後の社会学者・哲学者のレイモン・アロン(同じ1905年生まれ)、労働運動・ソビエト連邦史専門の歴史学者・マルクス主義者ジャン・ブリュア(フランス語版)と同期であり、後に労働社会学(フランス語版)を提唱することになるジョルジュ・フリードマン(フランス語版)、およびマルクス主義者・翻訳家のノルベール・ギュテルマン(フランス語版)と親しかった。ギュテルマンは同じ1924年に、ジョルジュ・ポリツェル、アンリ・ルフェーヴルらのマルクス主義哲学者とともにソルボンヌ大学を拠点に、(詩人・画家のマックス・ジャコブの支援を得て)『哲学(Philosophies)』誌を創刊し、マルクス主義とフロイトの精神分析の影響を受けたシュルレアリスムの若手作家ジャン・コクトー、ルネ・クルヴェル、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル、ジュリアン・グリーン、フィリップ・スーポーらが寄稿していたが、ニザンはこの時期にはまだ彼ら左派知識人の活動に直接参加することはなく、活動を共にするのは1927年の共産党入党後、特にポリツェル、ルフェーヴル、ギュテルマン、作家ピエール・モランジュ(フランス語版)らが1929年に『マルクス主義評論(Revue marxiste)』誌を創刊したときからである。
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