模索の時期とは? わかりやすく解説

模索の時期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 17:19 UTC 版)

ポール・ニザン」の記事における「模索の時期」の解説

さらに、『自我礼拝三部作などにより、かつては青年知識人敬愛の的でありながら、後に極右的思想傾倒して批判されることになったモーリス・バレス(「バレス裁判参照)の影響シャルル・モーラス影響以上に直接的であり、アクシオン・フランセーズから分離したジョルジュ・ヴァロワ(フランス語版)、バレス息子フィリップ・バレス(フランス語版)らによって結成されファシズム政党ル・フェソー(フランス語版)に数か月だが参加し同名機関誌寄稿したまた、この関連で、『ル・フェソー』誌と詩誌『アルゴノート(Argonautes、金羊毛探す冒険乗り出したアルゴー船の乗組員」の意)』が合併して創刊された『フリュイ・ヴェール(Fruits Verts、緑の果実)』誌にも参加した。これは、ジッド、ジロドゥ、ジュール・ロマンへのオマージュとして創刊され雑誌で、ニザン短編詩篇プルースト論などを寄稿したが、これも2号廃刊となった同様に4号廃刊になった若手作家・芸術家雑誌無題評論La Revue sans titre)』にはサルトルとともに参加し、後の『番犬たち』に通じ風刺的体制批判的なメリーランド煙草)を2箱吸いながら恋人解剖した医学生哀歌La complainte du carabin qui disséqua sa petite amie en fumant deux paquets de Maryland)」などを発表したニザン極右への一時的な傾倒だけでなく、宗教救いを見いだそうとしてプロテスタントへの改宗考えたり、多くカトリック作家訪れたことで知られるサルト県ソレムベネディクト会修道院訪れたり、さらには鬱状態神経症気味でスイスサナトリウムに入ることすら考えたりするほどであった1925年10月にはピサフィレンツェローマイタリアを「巡礼」した。 高等師範学校ではサルトルのほか、後の社会学者哲学者レイモン・アロン(同じ1905年生まれ)、労働運動ソビエト連邦専門歴史学者マルクス主義者ジャン・ブリュア(フランス語版)と同期であり、後に労働社会学フランス語版)を提唱することになるジョルジュ・フリードマン(フランス語版)、およびマルクス主義者翻訳家のノルベール・ギュテルマン(フランス語版)と親しかった。ギュテルマンは同じ1924年に、ジョルジュ・ポリツェルアンリ・ルフェーヴルらのマルクス主義哲学者とともにソルボンヌ大学拠点に、(詩人画家マックス・ジャコブ支援得て)『哲学(Philosophies)』誌を創刊しマルクス主義フロイト精神分析影響受けたシュルレアリスム若手作家ジャン・コクトールネ・クルヴェルピエール・ドリュ・ラ・ロシェルジュリアン・グリーンフィリップ・スーポーらが寄稿していたが、ニザンはこの時期にはまだ彼ら左派知識人活動直接参加することはなく、活動共にするのは1927年共産党入党後、特にポリツェル、ルフェーヴル、ギュテルマン、作家ピエール・モランジュ(フランス語版)らが1929年に『マルクス主義評論Revue marxiste)』誌を創刊したときからである。

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