模索期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 14:18 UTC 版)
11月15日には、先の政治協定と似た形で、労働組合と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。(シュティンネス・レギーン協定(ドイツ語版))労働組合や労働運動の急進化を防ぐために、団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容としていた。 12月16日、全国労兵レーテ大会では、急進派が、ドイツ帝国軍の解体と「国民軍」の創設を要求したが、エーベルトはこれを無視して、多数派を占める社会民主党員の賛成により翌1919年1月19日の国民議会選挙を決定した。これに反発した独立社会民主党は政府から離脱し、同党左派のスパルタクス団は1918年12月末共産党を結成し、翌1919年1月の選挙ボイコットを決定した。 12月23日、ベルリン王宮を占拠していた人民海兵団を武装解除しようとエーベルトが派遣した部隊との間に戦闘が起きたが、結局は撃退された。これに抗議して独立社会民主党は政府から離脱した(人民海兵団事件(ドイツ語版))。新政府にはノスケが入閣し、軍事問題を扱うこととなる。 12月30日、ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を中心にドイツ共産党(KPD)が結成された。
※この「模索期」の解説は、「ドイツ革命」の解説の一部です。
「模索期」を含む「ドイツ革命」の記事については、「ドイツ革命」の概要を参照ください。
- 模索期のページへのリンク