模索からダダイスムに至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 16:51 UTC 版)
「ジャン・アルプ」の記事における「模索からダダイスムに至るまで」の解説
両親からも熱心に支援を受けたアルプは1901年、シュトーラスブルクの美術工芸学校へと入学する。だが、その伝統的な美術教育に拒否反応を示し、専ら新しい芸術表現の可能性を模索しながらパリの美術館を巡り、そして詩作を続けていた。 後にドイツのヴァイマルの美術学校へ通い、1908年頃にはパリのアカデミー・ジュリアンなどで学んでマティスやシニャックらと展覧会を開くなどをした。しかし、その全てに満足できず、ほどなくスイスのルツェルンへと移り住んでいた実家に戻る。 1911年、スイスの同世代の作家たちと共に「デア・モデルネ・ブント(近代同盟)」と名づけたグループを立ち上げて展覧会を開いた。これ以降アルプは数年の間、まるで自分の方向性を模索するようにパリやケルン、ミュンヘンをまわり、同時代の多くの芸術家たちを交流を持っていく。その中には青騎士のカンディンスキー、クレー、ピカソ、エルンスト、モディリアーニなどがいた。 1915年、後にアルプの妻となるスイス人芸術家のゾフィー・トイバーとも出会い、ゾフィーとの共同制作を行うようになる。木や紙、布を使った幾何学的コラージュ作品を多く制作した。ゾフィーとの出会いは、アルプ自身の方向性を定める重要なものとなった。
※この「模索からダダイスムに至るまで」の解説は、「ジャン・アルプ」の解説の一部です。
「模索からダダイスムに至るまで」を含む「ジャン・アルプ」の記事については、「ジャン・アルプ」の概要を参照ください。
- 模索からダダイスムに至るまでのページへのリンク