模索の時代~不遇の晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 06:02 UTC 版)
「ロリー・ギャラガー」の記事における「模索の時代~不遇の晩年」の解説
1982年に発表した『ジンクス』は、クリサリスとの契約最後のアルバムとなった。これをリリースし、ツアーを終えると、ギャラガーの活動は緩やかなものになっていく。ヤードバーズの元メンバーが結集したボックス・オブ・フロッグスの2枚のアルバムにゲスト参加したり、東欧の国々をツアーしたり、チャーリー・ワッツやジャック・ブルースらと共にエチオピア難民救済コンサートに出演したり、単発のライヴを行ったりなどはしていたが、決してこれまでのように精力的とは言い難い状況だった。 何よりも、ギャラガーはどこのレコード会社とも契約しておらず、そのため作品のリリースがなかった。 そのような状況が数年間続いたが、その結果として、自らレコード・レーベル、カポを設立した。 1987年に、カポから初めての、そしてギャラガーにとって5年ぶりとなるアルバム、『ディフェンダー』を発表した。その後、ヨーロッパ・ツアーにも出かけた。翌年にも、アイルランド、イギリス・ツアーを敢行。1989年にも何組かのアーティストのアルバムに参加したほか、ヨーロッパ数ヵ国でもライヴを行なった。 1990年には、『フレッシュ・エヴィデンス』を発表。イギリス・ツアーも行なった。また、モントルー・ジャズ・フェスティバルではジャック・ブルースとセッションもしている。そして、1991年には4度目の来日を果たし、その後オーストラリア、アメリカにも足を伸ばした。 1992年にはバンド・メンバーを一新。そのメンバーでのアルバム製作は行われなかったが、ライヴ活動は続けられた。とは言うものの、ギャラガーの活動はまた緩やかなものになっていった。この頃には、長年の飲酒癖のせいで、ギャラガーの体調はかなり悪くなっていった。 しかし、ギャラガーは1994年にヨーロッパ・ツアーを始めた。 そして1995年、ツアー先のオランダのロッテルダムで倒れた。ギャラガーの肝臓は限界まで来ていた。4月に肝臓移植手術を受けたが6月14日、その手術が原因となり合併症のため47歳で逝去した。
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