ソレム - 模索の時期あるいは転換期
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「ピエール・ルヴェルディ」の記事における「ソレム - 模索の時期あるいは転換期」の解説
1926年、37歳のときに、ルヴェルディは芸術・文学によっては表現し尽くせないより深い精神性、瞑想を求めてカトリックに帰依した。さらに友人の前で原稿を焼却し、妻アンリエットとともにパリを去って北西部ソレム(ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏、サルト県)のサン・ピエール・ド・ソレム修道院の近くに移り住み、以後、1960年に没するまで、窮乏と孤独のうちに隠者のような生活を送ることになった。とはいえ、1930年までは『毛皮の手袋』、『はね返るボール』、『風の泉』、『白い石』などの代表作を発表し続け、30年代にも文芸誌に寄稿しているが、次の詩集『屑鉄』が発表されるまで7年間のブランクがある。この間に書かれた散文作品や「詩日記」と呼ばれる作品は後に作品集として発表されることになるが、詩による表現においては模索の時期あるいは転換期であった。このことは、詩集『屑鉄』に収められた作品が、これ以前の詩とは性質や方向性を異にすることからも明らかである。一つには、上述のようにロマン主義的なリリスムとは一線を画しながらも、「私」的表現、「詩情としての感情」の表現に向かっている。この点で、精神性の探求の一環としてカトリックに帰依した詩人が、『屑鉄』では、「信仰は茨のしげみに」変わってしまい、もはや彼を「覆い隠す」ものではなく、「世界のなかに自己を失う」と語る。残るのは「優しさの灰あるいは愛の塩」や「いっそう乾いたパンと固くなりすぎた心」だけである(「引き裂かれた心」)。これは詩人としての創造においては、イマージュ論で「精神の純粋な創造物」とされた静的なイマージュを越えて、「未知へと向かう希求」、「情動でいっぱいになったひとの内面が、不可避に起こす外へ向けられた爆発」と定義されるリリスムの探求であり、同時にまたこの探求の困難さ、繰り返し直面する挫折と絶望であり、さらには、にもかかわらず、この「最も低い鉱山(坑道)そして不幸の腐植土に厚く覆われた大地から再び出発」しようとする詩人の苦闘である。 このように、純粋に詩的・芸術的な表現、そして静的なイマージュから動的なリリスムの探求を目指すルヴェルディは、第二次大戦中もソレムの小村で孤独な生活を続け、ルネ・シャールやアルベール・カミュのように対独レジスタンス運動に直接参加することも、また、ルイ・アラゴンやポール・エリュアールのように地下出版によるレジスタンスに参加することもなかった。これについてルヴェルディは「詩の状況」と題する記事を発表し、「バリケードを張ること」は必要であっても、「バリケードを張りながら、同時にまたバリケードを歌うこと」、すなわち抵抗の詩を書くことはできないと語っている。 戦後、大戦中に書かれた43編の詩とピカソによる125点のリトグラフを掲載した詩画集『死者たちの歌』が発表された。1930年から1936年にかけて書かれた詩日記が『私の航海日誌』として1948年に『メルキュール・ド・フランス』誌社から刊行され、このほかにもブラックやミロとの共同制作による詩画集が発表された。 ルネ・シャールからの依頼により、ピュトー派キュビスムの画家ジャック・ヴィヨンの挿絵による詩画集の制作を開始したが、実現を見ないまま、1960年6月17日にソレムにて70歳で死去。この詩画集のために書かれた詩は、ピカソの挿絵(アクアチント10点)入りで1966年に『流砂』として刊行された。
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