ぶんえい‐の‐えき【文永の役】
文永の役
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1274年1月、金方慶はクビライより東南道都督使に任じられ、監督造船官郡民総管に任じられた洪茶丘と共に、日本遠征用の船団900隻の建造を命ぜられる。洪茶丘は金方慶に対し、船団完成を急ぐよう再三催促する。そのため金方慶は、南宋様式の船では納期に間に合わないと判断し、費用が安い高麗様式の船を建造することとした。6月、突貫作業でこれを完成させる。 金方慶麾下の高麗軍8000人を乗せた総勢4万の元・高麗連合軍艦隊900隻は、10月3日、合浦(慶尚南道)を出港した。10月5日、対馬に上陸、約1週間にわたって全域を蹂躙した後、10月14日には壱岐に上陸、守護代平景隆を自害に追い込んだ。16日から17日にかけて平戸・能古・鷹島を襲撃し、10月19日夕刻、大宰府を目指して博多湾に侵入した。 元・高麗連合軍は、壱岐・対馬の制圧には成功したものの、九州に上陸すると、幕府御家人の活躍により旗色が悪くなる。20日未明、百道原から上陸した元軍は、松浦党や原田一族を撃破して赤坂に進軍したが、菊池武房に蹴散らされて敗走する。一方、今津沖に停泊していた元・高麗連合軍本隊も今津へ上陸、日本側の監視隊を追い払い布陣すると、大宰府を目指して進軍を開始し、秋月氏と松浦党を破り麁原山を占拠する。 その後、一時は押し戻され、後退した元・高麗連合軍であったが、必死の抵抗を見せ踏み止まり、戦線は膠着状態となる。しかし、同20日夕刻には軍の統制が執れなくなり、軍事物資も枯渇した為、進退窮まる事態となった(原文:而官軍不整、又矢盡)。 金方慶は、総司令官の忽敦と、隣接部隊の司令官である洪茶丘に「兵法、遥かの敵領へ深く入った軍隊の鋭鋒あたるべからずとあり、我が軍は少なしといえども既に敵地に入っていて自ら戦うようになる。つまり秦の孟明視が船を焼き払い、韓信が背水の陣を布いた事と同じである、再度戦わせて頂きたい。」と進言するが、総司令官の忽敦から「孫子曰く、〈小敵の堅、大敵の擒〉疲れた兵(原文:疲乏之兵)を率いて、刻々と増強される敵(原文:敵日滋之衆)と立ち向かうのは完璧な計策ではない。」と却下され、「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定する。 元・高麗連合軍は、博多や筥崎で放火や拉致・略奪を働いた後、船に引き揚げた(原文:惟虜掠四境而歸)。しかし夜陰に乗じ、博多湾を出航した元・高麗連合軍艦船に、今度は暴風雨が襲いかかる。金方慶は辛くも難を逃れたが、船団は壊滅状態となり、帰還できた船は400隻ほどだったという。 1274年、文永の役より帰還した際、モンゴル将軍忽敦(クドゥン)は日本から連れて行った童男童女200人を、前年に高麗国王に即位した忠烈王と妃のクビライ公主クトゥルク=ケルミシュに献上した。
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