元・高麗の損害・状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
文永の役で元軍が被った人的損害は13,500余人にも上った。さらに人的被害だけでなく多くの衣甲・弓箭などの武具も棄てて失った。僅かに収拾できた衣甲・弓箭は府庫に保管されたが、使用に堪られるものではなかった。 また、文永の役において戦艦・軍隊・兵糧などを支給した高麗は、国力を極度に悪化させ疲弊した。 高麗からクビライの下へ派遣された金方慶、印公秀は、その上表の中で、三別抄の乱を鎮圧するための大軍に多くの兵糧を費やしたこと、加えて民は日本征討(文永の役)による戦艦を修造するために、働きざかりの男たちはことごとく工役に赴き、日本征討に加わった兵士たちは、戦闘による負傷と帰還中の暴風雨により多くの負傷者・溺死者を出すなどしたために、今では耕作する者は僅かに老人と子供のみであること、さらに日照りと長雨が続いて稲は実らず民は木の実や草葉を採って飢えを凌ぐ者があるなど、「民の疲弊はこの時より甚だしい時はなかった」といった高麗の疲弊した様子を伝えている。そして、再び日本征討の軍を挙げるならば、小邦(高麗)は戦艦・兵糧の支給には耐えられないとクビライに訴えている。
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