元・高麗側の状況と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
浙江大学教授・王勇によれば、弘安の役で大敗を喫した元は、その海軍力のほとんどを失い、海防の弛緩を招いた。他方、日本では幕府の弱体化と御家人の窮乏が急速に進む中で浪人武士が多く現れ、それらの中から九州や瀬戸内海沿岸を根拠地に漁民や商人も加えて武装商船商団が生まれ、敗戦で海防力が弱体化していた元や朝鮮半島の沿岸部へ武力を背景に進出していったとする。 1292年(正応5年、至元29年)、日本の商船が貿易を求めて四明(今の寧波)にやってきたが、検査により船内から武具が見つかり、日本人が武具を隠し持っていたことが発覚した。日本人による略奪の意図を恐れた元朝政府は都元帥府を設置して、総司令官・カラダイ(哈剌帯)に海防を固めさせた。 1304年(嘉元2年、大徳7年)、江南に度重なって襲来するようになった日本武装商船に警戒し、千戸所を定海に設けて海防を強化させ、市舶司を廃して元の商人が海外に出ることを禁ずる禁海令を発布した。王勇は、このように、元が倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉関主義へと態度を変化させ日本との通交を回避するようになったとする。 また、高麗においても、二度に及ぶ日本侵攻(文永・弘安の役)及び第三次日本侵攻計画による造船で国内の木材が殆ど尽き、海軍力が弱体化したため、その後相次ぐ倭寇の襲来に苦戦を強いられる重要な原因となった。
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