元・高麗連合軍撤退後の状況
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『金剛集』によれば、元軍が撤退した後の志賀島に元軍船1艘が座礁し、乗船していた約130人の元兵が斬首又は捕虜となった。『八幡愚童訓』の記述では、志賀島に座礁した兵船の大将は入水自殺し、他の元兵たちは武器を捨てて船から投降し生け捕られ、水木岸にて220人程が斬殺されたという。また、『金剛集』によると、元軍船100艘余りが至るところに打ち寄せられており、元軍の杜肺子・白徳義・羡六郎・劉保兒の4名が捕虜となったという。元軍船100余艘の漂倒は、『皇年代略記』によると10月30日に大宰府より京都へ報告された。さらに『安国論私抄』によると、11月24日に聞いた情報として「蒙古の船破れて浦々に打ち挙がる」とし、座礁した船数は、確認できたものだけで、対馬1艘、壱岐130艘、小呂島2艘、志賀島2艘、宗像2艘、カラチシマ3艘、アクノ郡7艘であった。 公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』によれば、乗船していた元軍が大風に遭う様子を伝聞として「賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、俄かに逆風(南風)が吹き来たり、本国に吹き帰った」 と記している。元軍の遭遇した大風については『薩摩旧記』にも、「神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、乗船が或いは海底に沈み、或いは浦に寄せられる」という記述がある。また『歴代皇紀』では、10月20日に日本側の兵船300余艘が追撃したところ、沖合で漂流する元軍船200余艘を発見したことが記されており、『安国論私抄』では、11月9日にユキノセという津に暴風雨により死んだと思しき元兵150人が漂着したという。 元軍の捕虜については、『勘仲記』(11月6日条)に陸上に乗り上げた軍船に乗船していた元兵50余人が鎮西東方奉行・大友頼泰の手勢に捕えられ、京都に連行されてくるという伝聞を載せている。 関東の鎌倉政権の下に元軍が対馬に襲来した知らせが届いたのは、日本側が防衛に成功し元軍が撤退した後であった。元軍撤退後に元軍の対馬襲来の知らせが関東に届いた理由は、大宰府と鎌倉間が飛脚でも早くて12日半ほどは掛かったためである。『勘仲記』(10月29日条)によると、幕府では対馬での元軍が「興盛」である知らせを受けて、鎌倉から北条時定や北条時輔などを総司令官として元軍討伐に派遣するか議論があり、議論が未だ決していないという幕府の対応の伝聞を載せている。 また、11月に入ってもなお未だ執権・北条時宗の下に元軍の博多湾上陸および撤退の報が伝わっていなかったため、時宗は元軍の本州上陸に備えて中国・九州の守護に対して国中の地頭・御家人ならびに本所・領家一円(公家や寺社の支配する荘園等)の住人で幕府と直接の御恩奉公関係にない武士階層(非御家人)を率いて、防御体制の構築を命じる動員令を発している。このように幕府が元軍の襲来によって動員令を発したことで、それまでの本所・領家一円地への介入を極力回避してきた幕府の方針は転換され、本所・領家一円地への幕府の影響力は増大した。 11月6日、京都に勝報がもたらされる。 『帝王編年記』には鎮西からの戦勝の報が載っており、それによれば「去月(十月)二十日、蒙古と武士が合戦し、賊船一艘を取り、この賊船を留める。志賀島において、この賊船を押し留めて、その他の蒙古軍を追い返した」 と報じたという。また、『五檀法日記』にも同日の飛脚からの知らせが載っており「去月(十月)十九日と二十日に合戦があり、二十日に蒙古軍兵船は退散した」 と飛脚は報じたという。 幕府は戦勝の報に接すると論功行賞を行い、文永の役で功績のあった御家人120人余りに褒賞を与えた。
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