元・高麗連合軍軍議と撤退
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元・高麗連合軍軍議 『高麗史』金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍司令官である都督使・金方慶と元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)や右副都元帥・洪茶丘との間で、以下のようなやり取りがあった。金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』 とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、我が軍は自ずから戦うことになる。これは秦の孟明視の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい」 クドゥン「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』 とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」 元・高麗連合軍撤退 このような議論があり、また左副都元帥・劉復亨が戦闘で負傷したこともあって、軍は撤退することになったという。当時の艦船では、博多-高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで1か月掛かることもあった(朝鮮通信使の頃でも夜間の玄界灘渡海は避けていた)。このような条件の下、元軍は夜間の撤退を強行し海上で暴風雨に遭遇したため、多くの軍船が崖に接触して沈没し、高麗軍左軍使・金侁が溺死するなど多くの被害を出した。 『金剛集』によると、10月21日の午前6時頃に元軍は悉く博多湾から撤退した。同書では元軍の撤退理由として、夜間に日本側に300余騎の軍勢が現れたことを撤退理由としている。 元軍が慌てて撤退していった様子を、日本側の史料『金剛仏子叡尊感身学正記』は「十月五日、蒙古人が対馬に着く。二十日、博多に着き、即退散に畢わる」 と記している。 『安国論私抄』に記載されている両軍の戦闘による損害は、元軍の捕虜27人、首級39個、その他の元軍の損害を数知れずとする一方、すべての日本人の損害については戦死者195人、下郎は数を知れずとある。また、『金剛集』によれば、両軍ともに戦闘による戦死者が多数あったという。その他、元軍側では都元帥に次ぐ高級将校の管軍万戸・某が日本軍に投降している。 元・高麗連合軍帰還と元側の評価 11月27日、元軍は朝鮮半島の合浦(がっぽ)まで帰還した。 『呉文正集』によれば、後年、文永の役についてクビライとその重臣・劉宣の会話の中で「(文永の役にて)兵を率いて征伐しても、功を収められなかった。有用の兵を駆り立てて無用な土地を取ろうというのは、貴重な珠を用いて雀を射落とそうとするようなもので、すでに策を失っている」 と評しており、文永の役に対する元側の作戦失敗の認識が窺える。 『元史』には日本侵攻の困難性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」 とあり、軍議における戦況認識にあるように、日本側が大軍を擁しており、集団で四方より元軍に攻撃を仕掛けてくること、戦況が不利になった場合、渡海が困難なため元軍の下に援軍が直ちに到着できないことを日本侵攻の困難理由に挙げている。 『高麗史』表では「十月、金方慶、元の元帥のクドゥン(忽敦)・洪茶丘等と与(とも)に日本を攻める。壹岐に至って戦い敗れ、軍の還らざる者は一萬三千五百餘人」 と文永の役を総評している。 また、南宋遺臣の鄭思肖は文永の役・弘安の役を評し「まずクビライはシリバイ(失里伯) を遣わし、高麗を経て倭を攻める。人船ともに海に墜ちる(文永の役)。辛巳(1281年)六月、韃兵(モンゴル兵)は明州を経て海を渉(わた)る。倭口に至るが、大風雨に遭い、人と船が海に墜ちる。再び大敗し、すなわち帰る(弘安の役)」 としている。
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