忽敦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 忽敦の意味・解説 

忽敦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 04:15 UTC 版)

忽敦(こつとん、クドゥン、生没年不詳)は、モンゴル人武将。

経歴

元史』、『高麗史』などによれば、至元11年(1274年)8月に日本征討都元帥として高麗に派遣され、日本に侵攻した(文永の役)。北九州に上陸したものの日本軍によって進撃を阻止され、夜に入って撤退、帰途は暴風雨のため多大の被害を蒙った。11月に高麗へ戻り、12月には高麗の忠烈王夫妻へ捕虜の少年少女200人を奴隷として献上し、翌年正月に元へ帰還した。

恐らくモンゴル系と考えられるが漢文化の知識があったようで、『高麗史』金方慶伝(及び『高麗史節要』)によると高麗側の主将である金方慶の進軍すべしとの意見に対し、「兵法(『孫子』)」を引用して撤兵を決めている。

弘安の役で元・高麗軍を率いた忻都は文永の役以前から高麗で日本征服の準備を行っており、突如派遣された忽敦が総司令官となっていることから、日本の歴史研究者の間では両者を同一人物視する場合が多いが、両者の十分な検証はまだ行われていない。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「忽敦」の関連用語

忽敦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



忽敦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの忽敦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS