元寇での暴風雨とは? わかりやすく解説

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元寇での暴風雨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 17:31 UTC 版)

神風」の記事における「元寇での暴風雨」の解説

文永・弘安の役での2度にわたる元寇で元軍に大損害を与えた暴風雨のこと。中国大陸朝鮮半島をほぼ制圧した元は、日本に対して元の属国となって朝貢することを迫った。この要求時の鎌倉幕府執権北条時宗拒絶したところ、1274年文永10年)と1281年弘安4年)の二度にわたり武力併合行なうべく、征服併合した高麗らの軍勢従えて大船団で日本本土攻め寄せた元寇)。 元寇第一回目の文永の役では、元側の史料高麗史』によると、博多湾から上陸した元軍は日本軍激し抵抗を受け、副司令官である左副元帥劉復亨負傷するなど苦戦したため、元軍総司令官である都元帥忽敦(クドゥン)は「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって少数の兵(元軍)が力量顧みず頑強に戦っても、多数兵力日本軍)の前に結局捕虜にしかならないのである疲弊した兵士用い日増しに増える敵軍相対させるのは、完璧なとは言えない。撤退すべきである」と述べ、元軍は撤退することに決したとされる危険な夜間の撤退強行した元軍はその撤退道中暴風雨遭い朝鮮半島合浦帰還した時には13,500余人不帰還者を出していた。 二回目元寇弘安の役では、元軍は日本軍猛攻志賀島の戦い壱岐島の戦い鷹島沖海戦)で苦戦強いられ、二ヶ月近く海上停滞していたまま台風遭い大損害を出して混乱したところを日本軍総攻撃受けて壊滅した御厨海上合戦鷹島掃討戦)。元軍の捕虜2、3にも達した

※この「元寇での暴風雨」の解説は、「神風」の解説の一部です。
「元寇での暴風雨」を含む「神風」の記事については、「神風」の概要を参照ください。

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